青山成重と大久保長安と『甲陽軍鑑』(その4)

前回でおしまいにするはずだったが、ツイッターで巫俊さんがとても重要な史料を発掘してくださったのでつづく。

 

『景憲家伝』(『武田流軍学全書 人』所収)から少し長いけど引用。

七日又御能御座候筈の處、雨天殊に舞臺作事の故五月半に掛る、其間に下る猿樂、脇の名人一に福王甚右衞門、二に延命喜四郞、三に金剛久右衞門、大皷伊德三郞四郞、高安與太郞、小皷は彌石與次郞、大皷安井清市是は白人也、尾張信雄公の衆なれとも、御意に違ひ家康公を奉賴參り候、頓て歸參仕候、狂言長命甚右衞門、無相手故和泉屋助次郞、柿原無市郞、大和懸りにて無之、鹽の辛き下手故長命三之丞、大倉甚六罷下り候、付大皷寳生新七是は若き者也、連大臣或は地諷奈良の町人三人罷下る、一人は宗四郞と覺申候、二人は名を失念仕候、小皷は簑三郞次郞入道伊樂、簑彥六、靑山圖書と被仰付、 台德院樣六才の御年より此彥六に小皷御稽古也、瀧川伊豫小姓を仕、天正十二尾州蟹江邊瀧川に奉公、瀧川牢々より濱松へ參候、子細は御當家の久敷猿樂簑笠之助弟也、

これは天正14(1586)年、豊臣秀吉の妹の朝日が徳川家康に輿入れしたときの話(場所は浜松)。

 

(1)「簑彥六、靑山圖書と被仰付、」

「簑彥六(靑山圖書と被仰付)」と読むべきだろう。「簑彥六は後の青山成重(青山図書)」だとはっきり書いてある。

 

次にとばして

(2)「子細は御當家の久敷猿樂簑笠之助弟也、」

簑彥六は簑笠之助の弟」だと書いてある。さらに「簑笠之助は猿楽師」だということも明記してある。さらにさらに「簑笠之助は徳川家の猿楽師になって久しい」ということまで書いてある。

 

また戻って

(3)「台德院樣六才の御年より此彥六に小皷御稽古也、」

「簑彥六(=青山成重)は徳川秀忠6歳(当時8歳)の時からの小鼓の師匠」と書いてある。

 

さらに

(4)「瀧川伊豫小姓を仕、天正十二尾州蟹江邊瀧川に奉公、瀧川牢々より濱松へ參候、」

「簑彥六(=青山成重)は滝川伊予守(滝川一益)の小姓」だったと書いてある。そして天正12年尾張の蟹江あたりで滝川に奉公」とある。この「滝川」は一益のことかもしれないが不明。

 

(5)「瀧川牢々より濱松へ參候」

蟹江城合戦で徳川家康織田信雄連合軍に敗れた「滝川」は浪々。簑彥六は浜松に。秀忠6歳の時からの小鼓の師匠だというから、直ちに師匠として採用されたのだろう。なお「滝川」は浪々とあるので「滝川」は「滝川一忠」かもしれないが、忠征かもしれないし益重かもしれない。

 

とにかくすごい情報量だ。なお『景憲家伝』は文字通り軍学者小幡景憲の家伝。小幡景憲徳川秀忠の小姓だったことはこの『景憲家伝』にも書かれている。当時は小幡熊千代といった。小幡景憲は元亀3(1572)年生れなので当時数えで15歳。その現場にいた当事者。なお、他に『御和談記』『三河実記』に朝日姫輿入れの記録があり「簑彥六」の名が記されている。

 

これで簑笠之助の弟が青山成重だとほぼ確定したといって良いだろう。ただし『柳営婦女伝系』や『寛政重脩諸家譜』等は、二人が兄弟だということを記すが、彼らが猿楽師だということを記さず、青山成重が徳川秀忠の小鼓の師匠だったことも記さない

 

一方、青山成重が大蔵道智の弟だという説は、猿楽師であることを記し、秀忠の師匠だったことも記す。なお、簑笠之助と青山成重兄弟が大蔵道智とも兄弟だとすれば、この説は成立するが、それは都合良すぎるか。「弟」ではなく「弟子」という可能性もあるかもしれないが何ともいえない。

 

(もう少しつづく)