青山成重と大久保長安と『甲陽軍鑑』(その2)

(1)青山成重は服部平太夫(蓑笠之助)の実の弟、とする史料がある(『柳營婦女傳系』『蓑笠之助伝』他)。幕府公認史料の『寛政重脩諸家譜』では服部平藏正信の二男とあるのみ。『寛政重脩諸家譜』蓑氏の家譜では青山成重に一切触れず。

(2)服部平太夫が西郷局の父だとすれば青山成重の姉。よって成重は秀忠の叔父(ただし平太夫は西郷局の養父説の方が有力)

(3)諸情報から考察すれば服部平太夫(蓑笠之助)と青山成重の出自は実は猿楽師だったと思われる。

 

ただし青山成重の出自については異説がある。

 

『古老物語』という史料によれば、靑山成重は大蔵道知の弟だという。大蔵道入(大倉大夫)という人がいて、その子が大蔵道知。「是鼓打至于當世無双之上手也」(『当代記』)とある。道知の弟ということは青山成重は大蔵道入の子ということになる。猿楽師であることに変わりないが、服部平太夫(蓑笠之助)の弟ではなく大蔵道知の弟。

 

『古老物語』によれば徳川秀忠は鼓の稽古の師匠として道知を希望したが、秀吉時代なので道知が江戸に下ることは難しく、代わりに弟を派遣したという。弟(青山成重)は秀忠に気に入られ出頭人となったという(代わりに弟を派遣したという話は服部平太夫の話と類似している)。成重養子の権之助(青山成国)は大久保長安の4番目の子なので成敗された。

 

また『諸士軍談』という史料にも同様に青山成重は大倉道知の弟で秀忠の鼓の師匠だったと書いてある。

靑山圖書と云ものは大倉道知弟也石見甥也

で、ここに「石見甥也」と書いてある。これは大久保長安(石見守)は青山成重(図書)の甥」という意味だと解釈できる。

 

実は、青山成重の父が大蔵道入(大蔵大夫)だとすれば、『甲陽軍鑑』にしばしば登場する「大蔵大夫」は道入であり、武田氏を頼って甲斐にいたという説があり。そして大蔵道入の子(つまり大蔵道知・青山成重の兄弟)が大蔵大夫を継いだという説がある。そして『当代記』に

此石見守と云は、甲斐國武田に住したる大藏大夫(道入子)末子也、

と書かれている。つまり青山成重は大蔵道入の子で、大久保長安は道入の孫、すなわち成重の甥となる。さらに言えば、青山成重は甥の子を養子としたことになる。

 

青山成重は服部平太夫(蓑笠之助)の弟なのか?それとも大蔵道知の弟なのか?

 

※ なおこの件は自分がネット検索した限りでは全くヒットしない。もしかしたら最初かもしれない。

 

(さらに続く)