『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その5)

徳川家康の「背信行為」を『三河物語』は記す。普通に考えればそれは家康にとって都合の悪い話であり「徳川中心史観」で書かれていると評されているにしては不自然なことである。さらに「背信行為」のアドバイスをしたのは著者大久保忠教の叔父大久保忠俊だと書いてあるのだから大久保一族にとっても都合の悪い話となるではないか。

 

そんな話をなぜ『三河物語』が載せているかといえば、著者の大久保忠教にとっては、都合の悪い話ではなく、逆に誇らしい話だからであろう。

 

なぜ「背信行為」が誇らしい話なのか?その理由は明記していないけれども『三河物語』が「大久保中心史観」で書かれているという視点で見た場合には、ある程度推測がつくのではないか?

 

三河物語』に

信光樣寄此方今當將軍樣迄御九代召つかわされ給ひしに、我等共が先祖御代々樣へ一度そむき奉り申たる事もなし。

と書いてある。「大久保一族は松平信光から今の将軍まで九代に仕えてきたが、先祖代々一度も叛いたことが無い」と。

 

三河一向一揆には多くの家康の家臣が参加した。主君に弓を引いた反逆者共である。その彼らが和議を請い、和議条件を提示してきた。一度も叛いたことのない大久保一族の忠教からすれば反逆者との約束など守る必要が無い」という思いがあったのではないだろうか。「主君を裏切ったくせに約束が守られると考えるのは虫が良すぎる。命が助かっただけでもありがたく思え」とも考えたのではないだろうか。

 

さらに言えば、大久保一族の忠俊のアドバイスを聞き、反逆者共との和議条件を受け入れるふりをして和議を交わし、後にそれを反故にした家康のこの時の行為こそが、大久保忠教にとっての理想の主君像であったとすら思える。

 

なぜなら九代に奉公して一度も叛いたことのない大久保一族は、それにも関わらず主君から大切にされていない大久保忠教が考えていることは『三河物語』で繰り返し述べられていることだからだ。

 

一方、主君に叛き一向一揆に参加しながら、後に許されて出世した者もいる。中でも本多正信について大久保忠教は思うところがあるようで、本多正信批判が何度も書かれている。それは正信を重用した家康に対する不平不満へと繋がるものであろう。

 

三河一向一揆に参加した家康の家臣達の命は助けられたが、それで家康は十分慈悲深いのであり、それ以上の要求など守る必要はないし、むしろ守るべきではないとさえ忠教は考えているのではないか。裏切者が手厚く遇され、裏切ってない大久保一族が冷遇されてるという認識が反映してるのかもしれない。

 

それともう一つ考えられるのは大久保忠教一向宗浄土真宗)を良く思ってないのではないかということ。

然共當世の衆は地獄見たる者なき、何の後生と云人も多し。然共地獄なきと云人は主親をも何共思ふまじければ、主の用にも立まじければ、左樣なる人にはあつたら知行くれても詮もなき事なり。地獄が有と見てこそ主にそむけは七逆罪のとがをかうむりて、無間地獄ゑおつるをかなしみてこそ御主をば一しほおそろしけれ。又親に背けば五逆罪のとがをかうむりて、無間地獄ゑおちてよるひる苦をうける。其くるしみのおそろしさに、御主と親をば大事にして御意に背かざるやうにと、人間はたしなめ、地獄も極樂もなきと見たらば、主のばちもおやの罰もあたらぬと見べき間、是をおもへば左樣に申人は、御主樣の御事をも思ひ申まじきは必定なり。

 

「今の世には「地獄を見た人はいない。何の後生(来世)」という人も多い。しかし地獄が無いという人は主君も親も何とも思わないので、そんな人に知行を与えてもしょうがないことだ。地獄があると思うからこそ主に叛けば七虐罪の咎を蒙り無間地獄へ落ちるのを悲しむからこそ主を一層恐れるのだ…」

 

地獄が無いと主張する人というのがどんな人なのかは良くわからない。浄土真宗は地獄を否定していない。ただし阿弥陀仏による救済を説いている。よって主君に叛いても地獄に落ちないと考える人もいたのかもしれない。浄土真宗のことを言ってるのではないかもしれないが、浄土真宗にも相通じるところがあるような感じもする。

 

なお大久保忠教法華宗陣門流