家康と小豆餅

三方ヶ原の戦のエピソードは他にもいろいろあるけれど、よく取り上げられるのがこの話。
小豆餅 - Wikipedia
長いけれど引用

徳川家康三方ヶ原の戦い武田信玄の軍に敗れた際、敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を食べたとする伝説に由来する。

このエピソードにはさらに続きがある。家康が小豆餅を食べている時に武田軍が追ってきたため、家康は代金を払わずに馬に乗って逃げた。しかし茶屋の老婆が走って家康を追いかけ、やっと追いついて家康に代金を支払わせた。この老婆が家康に追いついたところが「銭取」という地名として残った。現在は小豆餅の町名は存在するが、銭取の町名としては存在せず、遠鉄バスのバス停(気賀三ヶ日線ほか40番台系統。行政地名としては中区和合町)として残っているのみである。ちなみに小豆餅と銭取の距離はおよそ6km程ある。

この逸話は後世の創作で、実際には三方ヶ原の戦いでの死者を弔うためこの地に餅を供える習慣が続いたことが地名の由来である。『浜松風土記』には慶長年間のこととして、浜松城主堀尾忠氏の弟高階晴久が三方ヶ原に立ち寄り茶店で小豆餅を食べたところ、次々と奇怪な出来事が起こったので慌てて店を飛び出し、町まで逃げ帰った。翌日、晴久は多数の供をつれて昨日の場所に行くと、うら寂しい大野原三方ヶ原の戦いの戦死者の白骨が散乱していたので、掻き集めて焚いて埋め、小豆餅を供えて大念仏で法事を営んだことが由来であるとの記述がある[1]。また同様に、銭取はこの辺りに山賊がよく現れたことに由来する(山賊に銭を取られるため)。三方ヶ原の戦いがあった時期、三方原台地に民家まして茶屋などは存在しなかったが、当時の家康の必死の逃亡をよく表現した伝説として、長く地元の人々に親しまれてきた。

原史彦氏は「筋立ての成立はそれほど古い時代ではない可能性はある」(徳川家康三方ケ原戦役画像の謎)としている。この「それほど古い時代ではない」がどのくらい前を想定しているのかはちょっとわからない。江戸時代中後期か、維新後か、大正・昭和か?


『浜松風土記』というのは「会田文彬 昭和28年12月発行 浜松出版社」のことか?
浜松風土記
60年前には家康伝説は無かったということだろうか?


ところで俺は個人的には「三方ヶ原の戦いでの死者を弔うためこの地に餅を供える習慣が続いたことが地名の由来」ではなくて、別の可能性があるのではないかと思う(ついさっき思いついた)。


ヒントは「銭取」。家康が茶屋の老婆に追いかけられて小豆餅の代金を取られたから「銭取」というけれど、「この辺りに山賊がよく現れたことに由来する」ともいう。これ自体が本当の由来なのかも怪しいけれど、このあたりは、戦国時代はおろか、江戸時代にも何もなかったところで、その後も陸軍の演習場があったりして、開発されたのは本当につい最近のことらしい。そんな閑散としたところだから追剥が出るという話はあったのだろう。


で、この「追剥」だが「おいはぎ」である。分割すれば「おい」と「はぎ」である。


「はぎ」といえば「おはぎ」である。「ぼたもち」とも言う。「おはぎ」と「ぼたもち」と「小豆餅」には違いがあるのだろうか?よくわからないけど、とにかく同類の食べ物なのは疑いない。


つまり、「はぎ」または「おいはぎ」という言葉が「おはぎ」を連想させ「小豆餅」になった。「追剥」のことを「小豆餅」と呼ぶ隠語があったのかもしれない。


「はぎ=おはぎ(小豆餅)」だとすると「おい」は「追い」でそのまんま。すると「追いおはぎ」となる。「追いおはぎ」って何だ?と考えたとき、「おはぎが追いかけてくる(おはぎマン)」というホラーも連想できるだろうが、「おはぎが理由で追いかけてくる」という話も連想できる。そこからさらに「きっとおはぎの代金を払わなかったので追いかけてきたのだろう」という想像が働く。それはいつのことか?と考えたとき、ここは三方ヶ原台地だから、三方ヶ原合戦の頃ではないかと空想する。そうして出来上がったのが「小豆餅伝説」ではなかろうか?


一方、高階晴久の話も、より現実的な話のように見えるけれども、これも「おいはぎ」が「おはぎ(小豆餅)」になってできた話ではないだろうか?というかウィキペディアの説明だとよくわからないけれど、検索したらこっちも荒唐無稽な話で「店の娘(実は物の怪)が追いかけてきた」という話だった。