続・メッケルが関ヶ原は西軍の勝ちと言ったというのはガセという話について(推理篇)

ここまでにわかったこと

・メッケルは参謀旅行で関ケ原に行ってない
・後任のビィルデンブルヒは参謀旅行で関ケ原に行った

参謀旅行とは参謀が現地に行って東軍と西軍に分かれ、地形・兵站等を考慮しながら作戦を立てて争ういわば大規模なウォー・シミュレーションゲーム


さて、それを踏まえて海音寺潮五郎は『武将列伝 戦国終末篇』の問題の部分

関ヶ原の戦いは負けるべくして負けた戦争だ。明治年代にドイツの有名な戦術家が日本に来て、関ヶ原に遊び、案内の日本陸軍から、両軍各隊の配置・兵数を聞いて、
「これでどうして西軍が負けたのだろう。負けるはずはないのだが」
と不審がったところ、参謀が戦い半ばに小早川秀秋が裏切りしたことを告げると、手を打って、
「そうだろう、そうだろう」と言ったという話がある。ぼくはこのドイツの戦術家の説を信じない。兵数と陣形だけで数学的にことを考える参謀的迷妄だと思っている。小早川秀秋の裏切りが決定打になっていることは事実だが、敗因は他に無数にある。それは既に述べた。そしてその根本は、重ねていう、三成の不人気にあり、それは三成の陰険な性格と人心洞察力の鈍さの当然の帰結であると。

ここからさらに絞り込むと

明治年代にドイツの有名な戦術家が日本に来て、関ヶ原に遊び、案内の日本陸軍から、両軍各隊の配置・兵数を聞いて

は、実は関ケ原合戦のことではなく「総裁官ビィルデンブルヒが関ケ原において参謀旅行における東軍・西軍、両軍各隊の配置・兵数を聞いた」という話が元になっている可能性があると思うのである。

(作戦十月二日)
七 旅団司令部ハ関ケ原停車場前に舎営ス
明治二十二年十月尾濃地方参謀旅行記事. 〔本編〕(西軍ノ部)

その際に、ビィルデンブルヒが関ケ原合戦について語った可能性は無いことはない。


しかしながら、それよりもこの参謀旅行で東軍・西軍どちらが勝ったのかといえば、そもそも訓練であって勝ちも負けも無いのだが、強いて言えば「西軍の勝ち」ということができるだろうということの方が気になるのである。そして、そこから次のような考えが派生する。


参謀旅行においては西軍が勝った。しかしこれはあくまでシミュレーションゲームであって実際の戦闘ではない。実際の戦闘では予期せぬことが起きるものだ。と。そしてその典型的な例が関ケ原の戦いであると。


もちろん、研究の進展により今では異論があるだろうが、西軍が有利であったのが、小早川秀秋の裏切りという予期せぬ事態により、形勢が逆転したのだという考え方があるのは動かしがたい事実。


そこから、こんな訓練は無意味だという批判が出てくるのは容易に想像できる。


実際、海音寺潮五郎に戻れば、彼自身が

ぼくはこのドイツの戦術家の説を信じない。兵数と陣形だけで数学的にことを考える参謀的迷妄だと思っている。

と述べている。その心は

小早川秀秋の裏切りが決定打になっていることは事実だが、敗因は他に無数にある。それは既に述べた。そしてその根本は、重ねていう、三成の不人気にあり、それは三成の陰険な性格と人心洞察力の鈍さの当然の帰結であると。

であり、上に書いたこととは全然違うけれども、「兵数と陣形だけで数学的にことを考える参謀的迷妄だと思っている」の部分については、「実際の戦闘では何が起きるかわからない」という主張においても、適用できる話である。


すなわち、「メッケル」の逸話とされているものの本質は、ドイツ式陸軍制度への批判である可能性がると思うのである。


当時の日本の陸軍教育においてドイツ式を採用するかフランス式を採用するかで大いなる対立があったのだ。


俺なんかは昔この話を知った時、「フランスは先進国でドイツは遅れた国なのに何でドイツを?」と思ったものだが、実状は異なる。ドイツ式とフランス式の違いについて『日本陸軍史研究メッケル少佐』に

仲村男も「仏蘭西の方は何うかと云ふと学者的、独逸の方は実際的と斯ふ考へた。戦術でも何でも実際的で、教育法が実際に當箝りますので、仏蘭西の教へ方は寔に高尚であるが、実際的でないと云ふ感じを起こしました」と追憶してゐるが

とある。


さて、ここで非常にややこしいことだが、「兵数と陣形だけで数学的にことを考える参謀的迷妄」はドイツとフランスのどちらに当てはまるのかといえば、通常それは「学者的」という言葉と合致し、すなわちフランスの方ということになるだろう。しかしながら、戦闘は兵の数や兵站で決まるという「合理的」な考えを持つドイツ式こそが「兵数と陣形だけで数学的にことを考える参謀的迷妄」とする考えが出てくることは十分ありえるのである。


そして、これは前に書いたことだが、フランスこそが「精神主義」の本家なのである。オリンピックの創立者クーベルタン男爵はその権化みたいな人なんである。精神主義といえば中世的な遅れた考えだと思ってる人が多いだろうけれどもさにあらず、進歩的なフランスこそが精神主義で、遅れたドイツが合理主義なのだ。


ドイツ派とフランス派が鋭く対立していたけれども、メッケルは非常に優秀な軍人であり、メッケルを目の前にしては、フランス派もその実力を認めざるを得なかったのである。しかしながら、メッケルが明治21年3月に帰国すると状況は変わってきた。『日本陸軍史研究メッケル少佐』が引用する『月曜会記事』明治22年1月記事にドイツ式に対する批判がある。

戦争ハ決シテ予期ノ如クナルヲ得ズ。故ニ之ヲ教育センニハ、其ノ状況ヲシテ恰モ鞍馬、空●ノ間ニ在ル如クシ、各人ヲシテ其ノ心謄ヲ練磨シ、果敢、決行ノ性ヲ養ハシメザルベカラズト。是ヲ以テ教育ノ方法至厳ニシテ、敢テ猶予、熟考ノ暇ヲ仮サズ。

と、いきなり精神主義全開である。続けて、

命令ノ記載、伝達、地形並ニ情況ノ判断ヨリ給養、宿舎、偵察、報告ノ類ニ至ル迄先ヅ各人ヲシテ之ガ計画、区処ヲ為サシメ、敢テ予メ之ヲ教ヘズ、且ツ不時ニ各人ノ任務ヲ交換シ、当時ノ戦況ニ応ジテ直ニ之ガ処置ヲナサシメ、若シ稍不可ナル所アレバ、不遜、侮慢ノ言辞ヲ発シ、従事者ヲシテ慙汗、忿怒措ク能ハザルニ至ラシムルト雖モ、之ニ反シ、ヴュルデンブルフ氏ニ在リテハ先ヅ教ヘテ而シテ後之ヲ記憶セシメントスルニ在ルモノヽ如シ(略)

つまり、「習うより慣れろ」ということで、学生に自分の頭で考えさせ、もし間違ってたら罵倒するのが教育であり、それに反してビィルデンブルヒは学生に懇切丁寧に教えてるのがけしからんというわけだ。そんな教育では臨機応変に対応できないと。今でも教育あるあるですね。


※「進歩的」なるものがいかに世の中に害悪を与えるのかの典型であります。しかもその「進歩的」なるものがもたらした害悪の責任が「後進的」なるものに押し付けられてるんだからたまったものじゃありません。たとえば北朝鮮を中世的とするのは完全な誤りであります。

※なおこの「月曜会」というのがフランス派の巣窟


以上のことを鑑みるに、関ケ原の逸話は、ビィルデンブルヒ批判、ひいてはドイツ式軍事教育批判のための逸話である可能性が非常に高いと俺は思うのである。