本多忠豊・本多忠高

ウィキペディア安城合戦の記事を見たんだが頭が超混乱する。


たとえば、天文14年(1545年)にあったとされる「第二次安城合戦」。

両軍は安祥城近辺の清縄手で激突した。 松平勢は織田勢に背後から攻撃されて始めて援軍の到着を知り、これを叩こうとするが、この隙を突いて城兵が打って出たために挟撃を受ける。退路を断たれることを恐れた家臣たちは、致命的打撃を受ける前に退却する様に進言するが、広忠は聞き入れず突撃を敢行する。しかし、信秀が在陣している事が松平勢中に知れ渡ったために兵は動揺し、軍勢は二つに分断され、退路を完全に断たれた。広忠は自己の安全も絶望視される中討死を決意するが、重臣の本多忠豊(本多忠勝の祖父)がそれを諌め、広忠の身代わりとなって敵本陣深く突撃した事で織田勢の注意を引く事に成功し、広忠や生き残った松平勢は岡崎城への退却に成功する。しかし、身代わりとなった本多忠豊は討死する。この敗戦によって松平氏の地位は完全に凋落し、今川氏への依存はますます強くなることになる。

本多忠豊が討ち死にしたという。ウィキペディアの「本多忠豊」にもそう書いてある。

松平氏に仕えて、その重臣として活動した。天文14年(1545年)、三河安祥城をめぐる織田信秀との戦い(第三次安祥合戦)で敗北した松平広忠を逃がすため、殿軍を務めて討死した。
第三次安城合戦で戦死したとされる地に立つ本多忠豊墓碑(愛知県安城市

当時の墓所は不明だが、寛政6年(1794年)に岡崎藩主本多忠顕が建立した墓碑が安城市内に残る。

本多忠豊 - Wikipedia


ところがウィキペディアの「柳営秘鑑」の記事をみると、

「一、扇の御馬印ハ五本骨ニ而親骨の方を竿付尓して被為持。元来、本多平八郎忠高所持之持物尓て数度の戦功顕し。天文十八年(1549年)安祥城責の時、一番乗りして討死之後、其子中書忠勝相伝、用之処、文禄二年(1594年)大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被成置。」

柳営秘鑑 - Wikipedia
とある。本多平八郎忠高は忠豊の子だ。「安祥城責」で戦死してはいるけれど人と時と場所が全然違う。これはまあ別の話なんだろう。


ウィキペディアには「類似した話」として『常山紀談』の話を載せている。

天文十四年(1545年),公矢矧川にて織田家と軍ありし時、利無くて危かりしに、本多吉右衛門忠豊、疾く岡崎に入らせ給へ。御馬印を賜はり討死すべし、と申せ共許されず。扇の御馬印を取て清田畷にて討死しける。

これはまさに「第二次安城合戦」の記事と符合する。ただし「安祥」の文字はどこにもない。「矢矧川にて織田家と軍ありし時」だ。「安城合戦」の記事はまるでその場で見ていたかのようにやたらと詳しいので『常山紀談』以外の何かソースがあるには違いない。それは一体何だろう?


しかし『柳営秘鑑』はなぜそのことを書かなかったのだろう?一番乗りの討死は特筆すべきことかもしれないが、主君の命を守るための討死も特筆すべきことではないか?しかも親子二代続けての討死だ。


怪しい。


※ なお安城市に本多忠豊墓碑というのがあるが、これは1794年に建てられたそうだ。
本多忠豊死節碑
ウィキペディアによれば『柳営秘鑑』の成立が1743年、『常山紀談』は1739年に原形が成立し以後30年かけて満足のいく形に完成させたそうだ。これらと墓碑の建立にはおそらく関係があるのだろう。


(追記)

彼は天文九年説を前提に落城後の奪還戦の殿軍を努めて戦死したことになっています。世に言う清畷合戦です。これは寛政重修諸家譜にある話ですが、先行する官製系図資料である寛永諸家系図伝には載っていない話です。

<論評>『三河武士は忠義に薄く』についての考察  »»Web会員«« : 水野氏史研究会