松平信孝の放逐天文12年節の根拠は?

その後、広忠の代理で駿府今川義元に年賀の祝い述べに行っている間に、広忠の軍勢に居城・三木城を攻め取られた。この事に不満を持ち今川義元に直訴したが退けられている。

松平信孝 (戦国時代) - Wikipedia
ウィキペディア松平信孝の記事にはいつのことか書かれていない。一方、安城合戦の記事では

天文12年(1542年)、広忠は領主の死没した土地を横領していた松平信孝(叔父)を年賀の使いとして駿府に送ると、そのまま追放してしまう。これに激怒した信孝は織田氏に与し、山崎城を築く(現在の安城市山崎町神明社)。山崎城は碧海台地の端の小高い丘に位置し、岡崎城までは見渡す限り低地が続いていた。そのため見通しが利き、敵の侵入路や兵力が把握できるので、安祥城の出城として重要な役割を果たしていた(山崎城の築城年は天文12年や天文16年(1547年)など諸説あるが、後述の合戦ではそのような出城であるにもかかわらず攻撃されたという記録がないため、天文16年説が有力)。

安城合戦 - Wikipedia
とあり、天文12年のこととしている。

 松平広忠は家臣の言を入れ、1543年(天文十二年)正月に今川家への使いに信孝をやり、そしてその留守の間に信孝の領地に攻め込み、代官を置いて直轄化しました。

川戦:下克上編⑩松平信孝放逐: Papathana's ブログ

天文十二年になってとある事件が起こる。その事件とは、広忠の伯父で一門を代表する松平信孝が広忠の重臣から疎まれて、信孝の留守中にその所領を奪い取られてしまったというものである。

【談議1】水野氏と戦国談議(第八回2/2) : 水野氏史研究会
も天文12年。


ただし根拠がわからない。これは史料上確認できることなのか?それとも学者の推測か?


何でこれにごだわるかというと、俺の持っている本(いまは名前は秘す)には天文16年正月と明記してあるから。