小瀬甫庵を理解せずして織豊時代を理解することなどできない

小豆坂合戦天文11(1542)年説の根拠は小瀬甫庵の『信長記』(以下『甫庵信長記』)だという。小瀬甫庵という人は歴史学者・研究家に非常に評判が悪い。だけでなく甫庵を見下している感がバリバリある。にもかかわらず、その甫庵を採用して定説にするというのはいと不思議なり。


ところで、俺は小瀬甫庵という人に対する現代の歴史学者・研究家の態度に違和感を持っている。

織田信長の事跡を調べる上で『信長公記』の史料価値は極めて高いものです。それに比べると小瀬甫庵の『信長記』は大田牛一本をベースにして、読み物としてより面白くなるようにアレンジメントを加えています。彼の手によって、桶狭間合戦は奇襲攻撃になったり、墨俣に一夜城が築かれたり、長篠合戦で鉄砲三段撃ちとなったり大田牛一本に書かれていない事が記されており、その典拠となる史料がどこにもない事から、近年これらは創作であると見なされております。ただ読み物として甫庵本は牛一本より面白い事は確かで、そのせいでこれらの本が出た江戸期以降、甫庵本は牛一本より広く流布される事になりました。
 三河物語は言います。信長記は誤りが多い。全ての事が間違いとは言わないが、全体の三分の一が本当にあった事、三分の一がそのままではないが似たような事があった。残り三分の一はまったくなかった事である、と。これはおそらく、甫庵本の事を言っているものかと思われます。

川戦:安城合戦編③第一次小豆坂合戦のまぼろし(再掲): Papathana's ブログ


※ 念ののために書いておくけれど、別に筆者の巴々氏(と呼ばせてもらいます)を非難しようとするためのものではありません。これが甫庵に対する一般の評価であり、それを紹介するのに丁度今目に入ったから引用するまででございます。


現代においては『甫庵信長記』より太田牛一の『信長公記』(これも実は『信長記』なのだがここでは『信長公記』とする)の方が信用できるとされている。


ただし、甫庵にとっては『信長公記』は問題のある書であった。『甫庵信長記』の「起」には

真に其士の取捨、功の是非を論ずるに、朴にして約なり。上世の史とも云つべし。後はあれど仕途に奔走して、閑暇なき身なれば、漏脱なきにあらず。予これを本として、且は公の善、悉く備はらざる事を嘆き、且は功あって漏れぬる人、其遺憾いかばかりぞやと思ふ儘に、かつかつ拾ひ求め之を重選す。

とある。『信長公記』は「漏脱」があるので自分がそれを埋めようというのが甫庵の意図であった。決して「読み物としてより面白くなるようにアレンジメントを加えて」いるのではないのだ。もちろん本人がそう書いているからといって、それを素直に信じていいものかということはあるかもしれないが、俺は信用してよいと思う。だからといってその記事が正しいかというのは別の話。


三河物語』は『信長記』には誤りが多いという。この『信長記』は『甫庵信長記』のことだと思われるが、しかし『信長公記』と比較して『甫庵信長記』の誤りが多いといっているわけではない。大久保彦左衛門が『信長公記』を目にしたかはわからないが、ここではあくまで『甫庵信長記』単体を見て誤りが多いといっていると考えるべきだろう。


繰り返すが、甫庵自身は嘘を書いているつもりは毛頭なく、これが真実だと考えて記したのだと考えるべきだろう(ただし全部が全部そうだとは限らないかもしれない。読者である「武家から我が家の祖先の活躍が書いてないではないか」などというクレームがあればその圧力に屈したといったようなことはあったかもしれない。とはいえそれは武将の参加や活躍に関することであり、年次に関することなどでは無いのではなかろうか)


であるからこれに「創作」という表現を使うのは適切で無いように思う。だが「創作」とは「それまでに無かったものを新たにつくり出すこと」というのが辞書的な意味であるから、「嘘だと知っているのに意図的に嘘を書いた」といったものでなく「本人は事実を書いたつもりだが結果的に事実でなかったものを書いた」ものだとしてもそれを「創作」と表現するのは間違いではない。ただし、その場合は歴史学者についてもそれが当てはまるわけで、もし「第一次小豆坂合戦」なるものが無かったことが明らかになった暁には「歴史学者が間違った」という非難だけではなく「歴史学者が創作した」という非難が浴びせられることを覚悟しなければならない。


「創作」という言葉は現代人にとっては辞書的な意味よりも狭く「意図的に」という要素が加えられて理解されており、『甫庵信長記』(あるいは『太閤記』の場合も「面白くなるように」といった歴史事実を書くという正しい目的とは異なる意図により事実と異なることが書かれているといった理解が蔓延していると思われる。


しかし俺はその認識は間違っていると思う。


『甫庵信長記』には間違いが多いかもしれない。しかし、それは甫庵の邪心から書かれたものではなく、甫庵自身は正しいことを書いているつもりなのだ。問題はなぜ間違ったことが書かれたのかということだ。それを「面白くなるように」といった安易な陰謀論的解釈で理解していたのでは、歴史研究に大いなる弊害をもたらすことになるのではなかろうか?



ところで、小豆坂合戦については『信長公記』の記事だと天文17年3月にあったとされる小豆坂合戦と合致しない記述がある。そのため歴史学者は小豆坂合戦が二度あったと考えるようになったということは既に書いた。


だが、それに気付いたのは現代の歴史学者が最初であっただろうか?小瀬甫庵も既にその点に気付いていた可能性はないのだろうか?そして甫庵もまた天文17年以前に小豆坂合戦があったのだという考えに至った可能性は無いのだろうか?


もし、小瀬甫庵もそういう考えに至ったのだとしたら彼はどのように思考しただろうか?おそらく天文17年以前に小豆坂合戦があった証拠を探したはずだ。その場合、本当は合戦が無かったのだとしたら証拠など見つかるはずはない。だが合戦があったのだと確信していれば、それっぽいことが書かれた文書を見つけて「これが合戦のあった証拠だ」と決め付けるなんてことがあるかもしれない(現代でもありがちなことだ)。すなわち天文11年に何かしらの出来事があった。だがそれは小豆坂合戦と呼ぶような代物ではなかった。しかし天文17年以前にあったと確信する甫庵にとってはそれは小豆坂合戦が天文11年にあったという決定的な証拠であると心底信じることができるものであった。そして『甫庵信長記』にもそう記した。


そういうことは十分ありえるのではないだろうか?


何のことはない。そういうことは現代の歴史学者もおかしやすい過ちである。故に小瀬甫庵は現代の歴史学者の大先輩である。ということは以前にも書いた。
小瀬甫庵史観 - 国家鮟鱇


なぜ歴史学者はこのような考えを持てないのだろうか?それは小瀬甫庵が自分たちを反映した「鏡」のような存在だからではないだろうか?


※ ところで江戸時代に『信長記』といえば『甫庵信長記』のことであった。なぜ『信長公記』が普及しなかったかというと『甫庵信長記』は刊行されたので世に広まったと言われている。だが、なぜ『信長公記』は刊行されなかったのか?それはおそらくこういうことだろうと思う。牛一・甫庵とも本来は『信長記』と呼ぶのが正しい。これはたまたま同じタイトルの本が二つあるということではなくて、甫庵の『信長記』は牛一の『信長記』の改訂版ということになっているからだろう。新版が出ればあえて旧版を求める人は余程の物好きしかいないだろう。