鉄砲三千丁について

長篠の戦いは「三段撃ち」や「武田騎馬隊」そして「鉄砲三千丁」について従来の説に疑問が出されている。


このうち「三段撃ち」「武田騎馬隊」については、現在では「なかった」とする方が圧倒的に優勢だと思われるけれど、「鉄砲三千丁」については前二者ほど支持されてはいないのではないかと思われる。


ウィキペディアの説明では

長篠の戦いの特筆すべき点として織田家は当時としては異例の鉄砲3000丁を用意し、新戦法三段撃ちを行ったとされるのが有名である。

通説である鉄砲3000丁というのは甫庵本『信長記』や池田本『信長公記』が出典である。甫庵本は資料としての信用度はさほど高くはないとされ、資料的な信用度が高いとされる池田本の方では1000丁と書かれた後に「三」の字が脇に書き足されたようになっている点に信憑性の問題がある。これは甫庵本の3000丁が一人歩きした後世の加筆なのか、筆を誤ったのに気付いてその場で加筆修正したのかは明らかではない。しかしその「三」の字は返り点とほぼ同じ大きさで書かれており、筆を誤ったのでその場で加筆したというのも少々考えにくい。

太田牛一の『信長公記』では、決戦に使用された鉄砲数に関しては「千挺計」(約1000丁)、鳶ヶ巣山攻撃の別働隊が「五百挺」と書いてあり(計約1500丁)、3000丁とは書かれていない。しかし、この「千挺計」は、佐々成政前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政の5人の奉行に配備したと書かれているのであって、この5人の武将以外の部隊の鉄砲の数には言及されていない。また、信長はこの合戦の直前、参陣しない細川藤孝筒井順慶などへ鉄砲隊を供出するよう命じており、細川は100人、筒井は50人を供出している。恐らく他の武将からも鉄砲隊供出は行われたものと思われ、さらに鉄砲の傭兵団として有名な根来衆も参戦している。つまり、太田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1500丁は考えうる最低数の数といえる。

長篠の戦い - Wikipedia

となっており、否定派の説を紹介する一方、「太田は全体の正確な鉄砲数を把握していなかったといえ、1500丁は考えうる最低数の数といえる」とも書いている。


で、ウィキペディアには書いてないけれど、「鉄砲3千丁」というのは、甫庵本『信長記』や池田本『信長公記』だけに書かれているのではない。


これについて、二木謙一氏は

太田牛一は、当初「千」と書いたが、のちに「三千」と改められたもので、史実ではないとする説がある。しかし、『長篠日記』には「鉄砲ワ信長公三千挺、家康公五百挺」とあり、『利家夜話』や『改正三河風土記』にも「鉄砲三千挺」とあり、そのほかにも織田・徳川の鉄砲を「三千挺」もしくは「数千挺」としたものは多い。信長のそれまでの鉄砲使用の実績から考えても、長篠でもやはり3000挺以上の鉄砲が使用されたと思われる。

と主張している。
信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学-史料批判-〜城と古戦場〜


このうち、『改正三河風土記』は

著者・成立年代については、慶長15年(1610年)5月成立の平岩親吉著と序にあるものの、正保年間以後の成立と考証され、著者も不明である。

三河後風土記 - Wikipedia
ということで、あまり信頼できない。また『長篠日記』も成立年代が天正6年という説もあるが、近世中期以降という説もある。


しかし『利家夜話』は文字通り、前田利家が語ったことを記録したものだと思われ。もっとも「鉄砲三千丁」が利家が語ったものなのか、著者が補足説明として書いたものなのかという問題がある。


で、気になるのは、甫庵本『信長記』と『利家夜話』のどっちが先かということ。「鉄砲三千丁」の情報が「利家→甫庵」と伝わった可能性もあるが、「甫庵→利家夜話」という可能性もある。


前田利家の没年が1599年、甫庵本『信長記』は1611年頃の成立らしい、甫庵は1624年に前田家から知行を与えられ、『利家夜話』の著者とされる村井勘十郎の没年が1644年。『利家夜話』の成立が1611年以降なら甫庵の影響がある可能性が高い。ただし甫庵が前田家から情報を得ていた可能性も全くないとはいえない。結局のところはわからない。