長篠合戦の真実

平山優氏が新著『長篠合戦と武田勝頼』で『史料を詳しく読み解くことで「否定論」の実証を試みた』そうだ。大変興味深い。
鉄砲三段撃ち「存在せず」  - 山梨日日新聞 みるじゃん


それはともかくこの記事に対する反応。
織田の鉄砲三段撃ちはなかった - ネットゲリラ

4 フェイスロック(神奈川県) 2014/02/02(日) 17:36:06.61 id:qQK9R4bU0
こんなこと言ったら織田の鉄砲三段撃ちがなかったのにボロ負けした武田がなおさらみじめになるだけだな

これが典型的だけれど、長篠合戦を関が原の戦いみたいに戦ってみるまでは勝ち負けが分からなかった戦争だと思ってる人は結構多い。


しかし、ウィキペディアを見れば

三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長徳川家康連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で勃発した戦い。

長篠の戦い - Wikipedia
とある。戦力については諸説あり、互角だったという説もあるにはあるみたいだが、一般には織田・徳川連合軍の方が圧倒的に多数だったとされている。


すなわち戦う前から単純な意味での勝ち負けは決まっていたのだ。戦争の勝敗は数で決まるものであって、桶狭間合戦などは例外中の例外だ。


だとすれば、なぜ武田軍は撤退しなかったのかということが重要なのだ。朝倉氏を攻めていた信長は浅井長政の裏切りを知って直ちに撤退した。勝頼は信長出馬を知ってなぜそうしなかったのか?


通説によると武田の軍議で宿老達が撤退を唱えたのに対し勝頼側近が合戦を主張し側近の意見が通ったという。しかし撤退すれば負けは負けだが損害は小さい。戦力を温存して次の機会を待てばよい。負けるとわかっている戦いをするのは無謀だ。そんなに勝頼側近は愚かだったのだろうか。


そうではなく、撤退することは決定したけれど、何もせずに撤退するのはプライドが許さないので織田・徳川連合軍に一撃を喰らわせた後に撤退する予定だったという話をどこかで読んだ記憶がある。これならいかにもありそうなことだ。撤退論と主戦論で対立したのではなくて、速やかに退却するか一戦交えるかで対立したというのが真相かもしれないとも思う。


ところで『信長公記』によると信長は地形を利用して敵方へ見えないように3万の兵を配備したという。なぜそんなことをしたのかと考えるに武田方に大軍だと知られれば相手が撤退するかもしれないと考えた、すなわち信長は武田軍が撤退しないように工作したということではなかろうか?単に長篠城を救援するのが目的ならば、武田軍を撤退されれば良いわけで、むしろ大軍であることを誇示する方が効果的なはずだ。


そうしなかったのは、信長出陣の目的は武田軍殲滅にあったからだろう。

今度間近く寄り合せ候事、天の与ふる所に候間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損せず候様に御賢意を加へらる。坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人數の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列れ、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、并に信長御馬廻鉄炮五百挺、金森五郎八・佐藤六左衛門・青山新七息・賀藤市左衛門御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、
『新訂信長公記』(新人物往来社

「悉く討ち果たさるべきの旨」とあるのはまさしくこのことで、このチャンスに一気に甲斐に攻め込んで武田氏を攻め滅ぼしてしまおうとまで目論んでいたのだろう。そのためには勝頼に早々に撤退されてしまっては困るわけで、そうされないための様々な工作活動をしたに違いない。


鉄炮三段撃ち」が事実でないのはほぼ間違いない。しかしながら信長がこの合戦で鉄炮を活用したのは事実であろう。「悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、」の後に鉄炮の話が出てくるのは、鉄炮の活用がこの戦略の重要な鍵を握っているからではないかと思われる。



さて、ここでもう一度「長篠合戦の勝敗」について考えてみなければならない。もちろん単純に考えれば信長の大勝利である。しかしながらこの合戦で武田氏は滅びなかった。通説ではこの合戦で武田は大打撃を受けたとされているけれど、武田氏が滅びるのはこれから7年も待たねばならない。もしこの時点で武田が滅びていれば信長は天下統一を果たしていたかもしれない。


※ もうひとつ考えなければならないのは『信長公記』に「悉く討ち果たさるべきの旨」と記されているけれど、それは実現できなかったということだ(武田の重臣が多く討たれたとはいっても全員ではないし勝頼は生き延びた)。信長がそう言ったのは事実であり、太田牛一は事実そのままを書いただけとも考えられるけれども、事実ではあっても実現できなかったこと(「失敗」ということもできなくもない)をあえて書くことに何らかの意図がある可能性もある。なお信長は「御身方一人も破損せず候様に御賢意を加へ」たはずだが、織田・徳川連合軍にも相当な損害が出たと考えられている。このことは注目されているようには思えないが意外に重要なことかもしれない。