第一次・第二次

北条氏康文書について俺はろくな基礎知識も持ち合わせずに取り掛かってしまったので、今更ながら学習。


小豆坂合戦について

小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)は、岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた戦国時代の合戦。

小豆坂の戦い - Wikipedia


ウィキペディアは続けて

三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で天文11年(1542年)と17年(1548年)の2度にわたって繰り広げられた。

と記す。これが定説らしい。


ところが、天文17年の合戦は感状があるため確実だが、天文11年についてはそうでないらしい。
川戦:安城合戦編③第一次小豆坂合戦のまぼろし(再掲): Papathana's ブログ
【談議1】水野氏と戦国談議(第八回2/2) : 水野氏史研究会(以下これら記事を大いに参考にさせてもらった)


では、天文11年説は何が拠り所なのかというと、太田牛一の『信長公記』には年次を記さず「八月上旬」とある。天文17年の合戦は3月なので合致しない。また合戦に天文17年には既に死んでいる織田与二郎という武将が登場している。


というわけで、これは別の合戦について書かれたものだと考えられ、『信長公記』には年次が無いけれど、小瀬甫庵の『信長記』には天文11年とあるので、この年にあったのだとされたということらしい。


これと安祥城との関わりは、この合戦をするに当たっては信秀が安祥城を既に手にしていなければならない、すなわち天文11年に合戦があったのなら、この時点で安祥城は信秀のものだったということになるわけですね。



これと似たパターンは他でも見たことがある。前に取り上げた「安藤氏十三湊還住説」だ。
安藤氏十三湊還住説の根拠 - 国家鮟鱇


満済准后日記』によれば、安藤氏が十三湊を退いたのは永享4(1422)年になる。ところが『新羅之記録』によれば嘉吉2(1442)年のこととなる。この矛盾を解決するために、安藤氏は嘉吉2年に退いた後にまた戻ってきて永享4年に再び退いたのだという説が出てきて定説化している。


こういうパターンは他にもあるのかもしれませんね。



というか、実は俺もこのパターンを使っている。天正10年本能寺の変のとき備中高松にいた秀吉は信長の死を毛利氏に知らせずに和議を結んだ。ところがこの際に毛利方に信長の死を知らせたという史料も存在する。小瀬甫庵の『太閤記』もその一つ。これについて俺は日付が異なることから、6月4日に信長の死を知らせず和議を結び翌5日に秀吉方から毛利に死を知らせたのだと考えている。
中国大返し - 国家鮟鱇


したがって、このような考えを一概に否定できないところが辛いところ(俺の説は上の二つと違って定説どころか、おそらく俺しか主張していない説であり、専門家は自分たちを省みず「ご都合主義」と批判する可能性大だが)。


とはいえ、個別にそれらの考えが本当に妥当なのかと考えた場合、問題点は多々あるように思われる。