内田樹先生曰く、国民国家が終ると歴史認識もグローバル化する(追記)

歴史記述について (内田樹の研究室)
しかし相変わらずあほなこと書いてますね。

このときから国土を持ち、国民がおり、常備軍と官僚層を備え、固有の言語、宗教、生活習慣、食文化などをもつ国民国家というものが基本的な政治単位に登録された。

国民国家が出来る前はそれらのものが全て無かったとでもいうのか?これが内田先生の「物語」か?そりゃ何を論じるかによっては国民国家成立以前と以後の違いでこれらが強調されることもあるだろうけれど、国民国家成立以前には何もなかったわけじゃないし、国民国家が終焉したからといって全てがなくなるわけがないでしょう。


グローバル資本主義がいくらそれを望んだからといって出来ない相談だ。

彼らが言いたいのは、「自分たちが語る歴史だけが真実だ」ということではなく、それよりもさらに次数が一つ上の命題、すなわち「あらゆる国の歴史家たちは『自分たちが語る歴史だけが真実だ』と主張する権利がある」ということである。

橋下氏がそんなことを本当に考えているのかはわからないが、そりゃどう考えたってグローバル化に反することだ。内田氏はおそらく、

誰もが嘘をついている。だから私も嘘をつく権利がある。そして、公正にも万人に「嘘をつく権利」を認める。

と言っているところからして、誰もが自分独自の歴史を持つ権利があれば、お互い様だから対立が起きないということを言っているみたいだ。


「あなたの歴史認識は気に入らないが、それと商売は別だ」


というケースなら(つまり棚上げ)相手の言っていることを「勝手に言ってろ」と聞き流せばよかろうが(そしてそれが結局のところ有効だが)、内田先生はグローバル資本主義の「障壁」だといっているのだから、そういう話をしているのではなかろう。


だが、歴史認識の違いが「障壁」だというのなら、少し考えればわかることだが「嘘をつく権利」を認めても「相手の嘘を正しいと認める義務」がなきゃどうしようもないではないか。しかるに「嘘を正しいと認める義務」があったのでは自分の「嘘をつく権利」が行使できないではないか。

誰もが嘘をついている。私もついているが、お前たちもついている。だから、誰もその嘘を咎める権利はない。

この論理はおかしい。「嘘をつく」と言っているが、この場合の「嘘」とは、客観的に見れば「嘘」だが当人は本当のことだと思っているという性質の「嘘」であろう。そうでなければなぜ揉めるのだ?したがって発声している時だけが「嘘をつく」ではなく「嘘の信念」を常に持っているということだ。相手の嘘を咎めないというのは「自分の嘘(信念)を認めない」ことになるではないか。


相手が嘘を言っている間は自分が人間であることを止めるということだろうか?そんなアホな。ゆえに、

この命題は一見すると「フェア」なものに見えるが、遂行的には「持続的・汎通的な正否の判定基準はこの世に存在しない」という道徳的シニスムに帰着する。

それ以前の話であり「全人類が嘘をついているにもかかわらず結果的に全人類が共通の歴史認識を持っている」というケースでなければ、そもそも「障壁」を取り除けないのである。


これ以降もなんか意味不明な話が続くがアホらしい。