素人の歴史研究について(その2)

ウィキペディアについて。よく目にするのが学生が卒論でウィキペディアの記事をまるまるコピペしたとか、参考文献としてウィキペディアを載せたとかいう話。もちろんそんなことがよろしいことではないことは理解している。


しかしウィキペディアに利用価値が無いのかといえばそんなことはないでしょう。


ウィキペディアの記事を見ていると今まで知らなかった話が書いてあることがよくある。それが出典のない「独自研究」によるものだから今まで知らなかったというのなら、そういうのにほとんど価値はないけれど、出典のあるものならそこで貴重な情報が得られる。何しろこっちは何でもかんでも知ってるどころか膨大な研究のごく一部しか知らないのだから。


で、そういう情報を見つけたら、ウィキペディアのみで終わりにするのではなく、その元となった史資料を探してみる。そういうった利用法が間違ってるとは思わない。


しかし問題は、何を調べればよいのかまではわかったけれども、その史資料はどうやったら読むことができるのかわからない、あるいはわかっていても俺の環境では著しく困難なことがしばしばあるということ。マイナーな史料や大学紀要や郷土史の刊行物などは図書館にも置いてないことがよくある。もちろん困難なだけで見ようと思えば見れないというわけではないけれど金と手間がかかるし、他にやりたいことはいっぱいある。


じゃあその件について史資料を見ないでブログなどに書くべきではないのかといえば、論文を書いてるわけじゃあるまいし、そこまで厳格なことをする必要は感じないのである(もちろん不確実な情報のみで他者を批判するとかいった場合は細心の注意をしなければならないけど、その点は心がけているつもりである)。


で実例をあげれば、たとえば土佐一条氏の兼定と内政の没年について。ウィキペディアの一条内政の記事を見ていたら、記事本文には天正8(1580)年に殺害されたといった諸説が書いてあり、それは以前からネット記事等を見て知っていた。ところが右上の枠内には

死没 天正13年6月5日(1585年7月2日)[2]

とある。それは全く知らなかった。「注」を見れば

高野山成福院所蔵の『土佐一条家并長曽我部家過去帳』による。

とある。この天正13年死亡説は検索してもウィキペディアとそれをコピーした記事にしか見当たらず、もしウィキペディアの記事を見なかったら俺は(おそらく一生)知ることがなかったであろう情報である(一条氏に特に強い関心があるわけではないので)。


ウィキペディアにしか載ってない情報は間違った情報の可能性もあるけれども、出典それも『土佐一条家并長曽我部家過去帳』などという一般にはそれほど知られていない、検索しても数件しかヒットしない史料を紹介しているのは、これを書いた人はそれなりに一条氏について詳しい人であろうということが推測される。だから所詮ウィキペディア情報だからと無視できなかったのである。


そして「成福院 過去帳」などのキーワードで検索すると、「四万十市歴史のロマン」という記事が見つかる。そこには、

兼定の歿年は従来の説では天正3年となっていたが、キリシタン文献と高野山成福院の過去帳とによって、天正13年であることが判明した。

と書いてある。ウィキペディアの「一条兼定」の記事には天正13年没としてあるけれど、その根拠は書いてない。これによって兼定の没年も『過去帳』によるものだということがわかった。


もちろん、この「四万十市歴史のロマン」の記事が信用できるとは言い切れない。しかしこれもやはり書いた人は相当詳しい人であろうことが推測できる。本来ならば、その『過去帳』の原文を見るべきであろうけれど、それをどうやれば見ることができるのかさっぱりわからない。原文でなくても論文等にそれが紹介されているのなら信用できるかもしれないけれど、その論文もまたどうやって見ればいいのかわからない。しかしながら総合的に判断すれば『過去帳』に兼定と内政が天正13年に死去したと書かれている可能性は非常に高いと推測されるのである。


そこでこれもベストではないけれども代替措置として、これらの記事を参考として「『過去帳』に兼定と内政が天正13年に死去したと書かれている」ということを前提として、あれこれ考えてみると一つの疑問が湧いてくるのである。それは、なぜ同じ史料に書かれているにもかかわらず、兼定天正13年死亡説を採用した記事は多いのに、内政天正13年死亡説を採用した記事はウィキペディア以外に見当たらないのかという疑問。


そこで真っ先に思いつくのは、実は『過去帳』に内政が天正13年に死亡したとは書いていないのではないか?つまりウィキペディアは間違っているのではないかということ。原文を確認していないのだから、そういうことがありえると感じるのは自然なことだ。しかしこれは「直感」としか言いようがないのだけれど、『過去帳』に内政が天正13年に死亡したと書いてある可能性が高いのではないかという思いが強かったのである。


その場合、第二の可能性として、内政の死亡年には諸説があるのだから、その中の天正8年(1580)説を多くの人が採用し、天正13年説は採用されなかったのではないかという可能性が思い浮かんだ。おそらくはそういうことだろうと今でも思っているけれども、そこで問題になるのは、内政天正13年死亡と書いてある『過去帳』には、同時に兼定天正13年死亡とも書かれているわけで、一方は他の説に劣ると考えられ採用されていないにもかかわらず、もう一方が採用されているというのは一体どうしたわけだ?と思うのである。


そうした疑問がわいてきたのは、ウィキペディアの記事を読んだおかげであり、漠然と兼定や内政についての記事を読んでいても気づかなかった問題なのである。


で、これについての記事を書いたおかげで、惟宗さん(ニックネーム)から、『過去帳』は「大日本史料」で読めること、および兼定・内政の没年は断定できないという回答を頂いたのであり、あの記事を書いたのは無意味ではなかったと思うのである。


一条兼定と一条内政の没年 - 国家鮟鱇