信長研究と歴史観

信長研究と進歩史観もそうだけれど、そもそも歴史を語るときにどういう歴史観で語るのかというのは非常に重要な問題。もちろんそれは全ての歴史において問題になることだと思うけれど、織豊期、特に信長時代においては個人的に関心があるからかもしれないがすごく気になる。


一つは既に書いたように「進歩史観」についてだけど、他にもある。


たとえば「英雄史観」。英雄史観とは「英雄によって歴史がつくられる」という歴史観であろう。ただし実のところ俺はあんまり詳しくない。


詳しくないけれど、「字面」から想像するに、英雄史観の最たるものは、その人物が生きた時代背景などを一切無視して、全てはその英雄個人の能力や意思によって成し遂げられたいうものだろう。するとその反対側にあるのは、その英雄が存在しなくてもそれは「歴史の必然」だから誰かが同じことをやったに決まってるという考え方になると思われ。


ただし、歴史を必然と見る進歩史観において、英雄がいないかといえばそうでもない。

歴史家は過去に対する裁判官である。進歩の敵は「容赦なく断罪され」、進歩をもたらした者は歴史的英雄の地位を勝ち得る[3]。歴史家は過去を道徳的に判断する権利と責任を持つ。

ホイッグ史観 - Wikipedia
この場合の英雄は、社会が進歩するという「大いなる意思」や「社会法則」がある中で、自分に与えられた役割を立派に成し遂げた者が「英雄」だということになるんだろうと思われ。


※ でもここで思うのは、本人にそのつもりがない、どころか全然違う方向を目指してたのにかかわらず、結果的に「進歩をもたらした者」も「英雄」なんだろうかということ。


現在の歴史研究においては、極端な「英雄史観」でも、極端な「非英雄史観」でもなく、その中間のどこかにあるんだろうと、つまり「英雄史観」だと指摘されれば「そんなことはない、時代背景・環境もちゃんと考えている」と答えるだろうし、「非英雄史観」だと言われれば「そんなことはない、ちゃんと歴史人物の個性を考えている」と答えるだろうと思われ。しかし極端と極端の間は幅広く、その立位置はかなりバラバラであろうと思われ。


そういったことを考えると「信長は革命の英雄か?」という問題は、俺個人的には陳腐なものだと思っているけれど、それはそれとして「信長は革命の英雄か?」というのはそもそもどういう意味でそれを論じているのかも、なかなかわかりにくいところがあると、その手の書籍を見て思うところなのである。