信長研究と進歩史観

前にも書いたんだけど。

信長が「中世の破壊者」「革命児」だったのか否かという問いかけ自体が、進歩主義史観が崩壊した時点で陳腐化しているのではないか

信長像の見直しに対する違和感

1980年代までは、人文・社会系の多くの学問ではマルクス主義的な考え方が主流になっており、これに関する知識のないひとは研究者としては認められませんでした。ゆえに現在でも、マルクス主義的な歴史観を、やはり修正しつつ用いている人は存在します。

現在の歴史学の考え方の主流は実証主義的な考え方であると思うのですが、皇国史観とマルクス主義的な見方をするグループが今も存在するのでしょうか。 - 来 る べ き 書 物


今でもマルクス主義の強い影響下にある歴史学者が少なからずいる。けれどそういう人達だけではなく、自分はマルクス主義者ではないという人でもマルクス主義の影響を受けている人がいる。そして、そもそも進歩史観マルクスが発明したものではなく、西洋近代において広く流通したもの(普遍的だったといってもよいだろう)であるからして、マルクス唯物史観ではなくても進歩史観の人もいる。


一般の歴史愛好家・信長ファンにおいては「革命児信長」といったって、そこにマルクス主義的な進歩史観による「革命」を連想する人はほとんどいないだろう。単に古いものを破壊して新しいものを創造するみたいなイメージではなかろうか。


ただし、そういう信長像が創り出された背景には、歴史学の世界におけるイデオロギーがあったのは疑いないところだろう。そして一般の歴史愛好家にしても無意識であろうとも進歩主義的な史観が体に染み付いているだろうと思われ。


そういうわけで、理論的なものであれ、漠然としたものであれ、「信長が革命の英雄であったか否か」というのは「歴史が進むべき方向に進むのに信長が寄与したか寄与しなかったか」という問題として捉えられているだろうと俺は思う。


※ あるいは「進むべき方向」ではなくて、「今現在がこうあることに信長はどのような寄与をしたのか」という問題意識もあるだろう。この場合は必ずしも進歩史観ではないかもしれないが、結局は進歩史観的な場合もある。



で、これの何が問題なのかといえば、マルクス主義が嫌いだからということではなくて(いやそれもあるけれど)、それでは見えてこないものがあるのではないかということ。


進歩史観とはつまりAという地点からBという地点に進むということ。たとえて言えば京都が出発地で目的地が東京だとすれば、ある人物が名古屋まで行ったとか、静岡まで行ったとしたら、すまり東に進んだら彼は「進歩した」ということになるだろう。しかしその人物が京都から南下して紀伊半島の最南端まで行ったとしたら、それはどう評価するのであろうか?彼は京都から少しも東に進んでないから何もしてないということになるだろうか?あるいはちょっとだけ東に進んだ場合には、少しだけ進歩したということになるのだろうか?距離的には名古屋に行くよりも移動したにもかかわらず。


いや、俺は信長の研究動向について、きっちり把握しているわけではない。だからそんなことは研究者にとってはわかりきったことで、そういうことは十分踏まえた上で、信長は革新者ではなかった(現在有力になってきた説)とか、信長は革新者だったとかいった評価をしているのかもしれない。だとしたらゴメンナサイと言うしかないけれど、そうだったとしてもそういう検証をしているということが俺程度の歴史好きの元には届いてこない。見た目には「進歩すべき方向」に進んだか・進まなかったかという一次元的な・直線的な話だけをしているように感じてしまうのである。