信長研究と歴史観(その3)

信長は「革命の英雄」だったのか、なかったのか?という場合、当然「革命」とは何かということをはっきりさせなければならない。


これがマルクス主義進歩史観による「革命」だというなら話はわかりやすい。「信長は中世を終わらせ近世を作ったのか」という話になる(正確には現在「中世」といわれてる時代はマルクス主義の歴史家によって「古代」と定義され「古代を終わらせて中世に移行した」という説があったということは前に書いた)。


実際、「信長は革命の英雄ではなかった」という話においては、表面的にはこのマルクス主義進歩史観的な話をしているように見える。ところが必ずしもそういう話をしているのではないようにも見えてややこしい。


結局のところ何が言いたいのか?単に「信長は革命の英雄ではなかった」という刺激的な言葉を使いたいだけなんじゃないか?とすら思えてくる。


楽市楽座は信長の独創ではなかった。だから何だというのだ?それは「信長は発明者ではなかった」であって、なぜそれが「信長は革命者ではなかった」ことになるのか俺には理解できない。発明者でなければ革命者ではないのか?そんな馬鹿な。


進歩史観的な意味で)「革命」の意思を持っていなければ「革命者」ではないのか?それはそう言えるかもしれない。でも意思があろうがなかろうが結果的に時代を変換させる役割を果たしたのなら(進歩史観的な意味で)そこに意義を認めるべきことではないのか?(進歩史観的な意味で)それこそが重要なことなのではないのか?信長が「革命」の意思を持っていたかいなかったかがそんなに重要な事だろうか?


なお金子拓氏はこう主張する。

 最後にもう一度題に戻ろう。「信長は革命者ではなかったのか」。いままで「革命者」の要素として考えられてきたようなことがらからは、かならずしもそうはいえなくなってきている。しかしながら、秀吉と家康によって実現した中世から近世へ、戦国乱世から統一政権へという時代の変革をもたらしたという意味では、歴史という大きな川の流れに埋もれさせてはいけない「革命者」であった。体のいい逃げ口上かもしれないが、いまのところはそう考えるほかないのである。

信長は革命者ではなかったのか


これはまあ俺の考えに近い。しかし俺が思うに、信長は天下統一を達成できなかったけれども、信長の支配した領域は広大なものだった。信長が何を考えていたかに関わらず、そのこと自体が日本を大きく変えることになったのは疑いのないところであろう。であるならば、信長がそういう意味で「革命者」だとされる最大の要素は「信長が強大だったから」ということに尽きる。いくら革命の理念を持ち合わせていても、その範囲が村程度であったなら「日本を大きく変えること」などできない。信長が強大だったから、その後の日本は変わったのだ


秀吉や家康が信長の理念を継承したのかは、それはそれで考えてみる必要があろう。ただ言えるのは、彼らが信長が支配した領域を継承したということだ。信長が本能寺で倒れたあと、いろいろごたごたはあったにせよ、信長以前の状態には戻らなかった。つまり日本は変化したのだ。それこそが「信長の革命」であろう。ただそれを「革命」と呼ぶのが相応しいかといえば、どうかと思う。


要は「巨大な権力が登場すれば世の中はそれがどういう方向なのかはともかく変化する」のであり、何も考えてない人物が「天下」を取ったとしても何らかの変化はあるでしょと思うのである。そしてそれを「あるべき方向への必然的変化」とごじつけてみることもそんなに難しくはないだろうと思ったりするのである。