信長研究と歴史観(その4)

結局のところ進歩史観唯物史観なんてこじつけでしょって俺は思ってる。


そりゃまあ普遍主義を否定するっていっても同じ人類なんだから、イヌやネコよりも共通点はあるのであって、似たようなところがあるのは間違いない。


それに日本は極東の島国とはいっても完全に孤立していたわけではなくて、中国と交流があったわけで、その中国はヨーロッパと地続きなのだ。何らかの形で影響が及んでいることもあるだろう。そして何より織豊時代においてはヨーロッパと直接交流があったのだ。


いわゆる「中世」から「近世」への移行は、日本独自の事情もあったかもしれないけれど、ヨーロッパとの接触の影響も大きかったと思う。アメリカでIT革命が起きれば日本にもIT革命が起きる。日本という孤立した地域が独自に歴史の発展法則に従って革命が起きたというわけではないと俺は思いますね。個人的には鉄砲伝来というのは相当な影響があったと思う。またキリスト教の伝来も従来の宗教観に影響を与えたかもしれない。ここのところはもっと考えてみなけりゃいけないけど。


ヨーロッパの歴史と日本の歴史に似たところがあるのは、そうかもしれないけれども、似ている理由は普遍的な歴史の発展法則なんてものによるのではないでしょう。にもかかわらず一般法則とやらで説明しようとしたらこじつけるしかない。根本がこじつけなんだから細部もこじつけである。信長が革命児だというのも信長は革命児ではないというのも、元々こじつけの産物であるからして、それっぽい事実を見つけてくればどっちにすることも割と簡単なことであろう。信長が評判を気にしていたから「保守的」だなんて、そんなこと言ってたら、大抵の人間は革命児でもあり非革命児でもある。再び信長が革命児と呼ばれることも十分ありえる。でもそんなことに意味があるだろうか?


信長は戦前は忠臣として評価された。戦後は革命児。それが発展して遂には天皇を廃して王になろうとしてたとまで言われるようになった。つい10年ほど前にはこんな説が流行していたのだ。そして今は革命児ではなかったと。新史料の発見や研究の進展で人物像が変わるということはありえるけれども、信長の人物像の変遷はそういうことで説明するよりも、別の要因の方が大きいと思いますね。