楽市楽座とは何だったのか?(その3)

楽市楽座の「最新」の研究とは何なのか?


世界大百科事典 第2版の解説

(略)

しかし現在では,これらの権力の発布した楽市・楽座令の以前に,各地に〈縁切り〉を基本的性格とする楽市場なるものがすでに成立していたことが想定され,この法令は城下町の繁栄を目的とした楽市場の機能の利用と位置づけられるに至っている。

楽市・楽座(らくいちらくざ)とは - コトバンク
ここの「現在では」とある。だがここで説明されているのは勝俣鎮夫氏の主張のことだと思われ、1970年代のことであろう。そもそも「世界大百科事典 第2版」の出版年は2006年であり、おそらく基本的には1988年版をデジタル化したものだろう。最近の研究による「信長は革命児ではなかった」とは関係ないと思われ。


また楽市楽座のうちの楽座について、信長が楽座を認めたのは安土などの特定の都市だけで、座の存在を否定しなかったというのは、脇田修氏の説で『織田信長―中世最後の覇者(1987)』にそのことが書いてある。これもまた「最新の研究」ではなく、これをもって信長が革命児ではないとなるわけでもない。少なくとも脇田氏はそういうことを主張したかったわけではないと思われる。『織田信長―中世最後の覇者(1987)』には

しかも織田政権の側が、都市の膨張や兵農分離によって、あらたな条件が生まれ、流通革命を必要とするようになれば、このようなことでは体制を維持できなかったであろうが、

とあって、つまり一部では座を廃止したけれども、それを全体に広げるには時期尚早だったという話のように思われる。


『信長の政略』(谷口克広 2013)はこれらの説を紹介しつつ、革命児信長像を否定する方向で論じているようだけれど、要するに、ここで言われているのは信長は急進的な改革者ではなかったということであり、革命児信長の全否定をしたわけではないと思われる。

信長は町の振興策として楽市・楽座政策をとった。その政策が流通を活発化させるための最上の策であることを知っていたのである。しかし、周囲の状勢を冷静に見た場合、その政策を領国全体に布くには時期尚早と判断したのであろう。(『信長の政略』)

ということは「信長は革命児ではない」というのは、このような「信長は急進的な革新者ではなかった」という意味なのだろうか?しかし、既に書いたように、ここで取り上げられているものは「最新の研究」ではないのである。


てなわけで、ややこしい話をこのように一つ一つ調べていって「最新ではない研究」が何なのかをを知ることによって、やっと「最新の研究」というのは何なのかというのがおぼろげに見えてきた。こんなんさらっと読んでたら理解するのは容易ではない。


(つづく)