楽市楽座令は信長が初めてではないという件について

これについては既に書いた。そんなことは近年わかったことではなく戦前からわかっていたことだ。1549年に近江六角氏が石寺新市に出した楽市令のことは小野均という学者が1928年に考察しているという(『信長の政略』谷口克広)


そんな前から知られていることが、なぜ今になっても、しつこく言われているのか?楽市楽座に言及したものには誤解されてるかのように書かれている頻度が高い。そういう書き方ではなくてナチュラルに「楽市令の初見は近江石寺で」とか書けばいいのに。そういう書き方をすると書き方によっては最近わかったことみたいにそれこそ誤解する人も出てきてしまうのではないか?


そもそも我々はそんな誤解をしていたのだろうか?「信長が初めてではない」と言われると、へーっと思って、あたかも自分がそれまで「信長が初めてだった」と信じていたみたいになるけれど、本当にそうだったのだろうか?


確かに「楽市楽座」といえば信長である。そういう認識があることは確かだろう。しかし「信長が初めてだった」と思っていただろうか?そもそも誰が初めてかなんてことに関心などなかったのではないだろうか?「誤解」していたのではなくて「知らなかった」だけではないだろうか?そりゃ中には信長が始めたと思っていた人もいるかもしれないけれど…


で、俺は信長が初めてではないということは戦前には知られていたけれども、それが無視されて、信長研究において信長が始めたという誤った理解がされてたのではないかと推測したんだけれど、どうもそういうことは無かったようで。つまりこれは「信長研究の最前線」でもなんでもなかったようで。


じゃあ一体誰が誤解してたというんだろうか?小説やアマチュア研究家の書いた本にそう書いてあったのだろうか?あったのかもしれないけれど「誰々がそう書いているがそれは間違い」みたいな話は検索したところでは見つけられなかった。


なんだかよくわからない話。


で、もちろん昔からわかっていたのだから信長が革命者だとされていた頃にももちろん研究者は知っていたはずのことで、それでも革命者だったわけでしょう。だから信長は革命者ではなかったと言われる原因がそれだとは思えない。少なくとも主要な原因ではないでしょう。


この他にも、最近の研究かと思えば、そうではなかったものがあって、それが頭を混乱させる。


どの部分が最新なのだ?