信長と天皇

『信長研究の最前線』(日本史史料研究会編)の「信長は天皇や朝廷をないがしろにしていたのか?」(神田裕理)に

太平洋戦争前では「皇国史観」(説明略)による「信長勤王論」を基に語られてきた。

一転して、戦後はおおむね「公武対立史観」で捉えられてきた。これは天皇・朝廷などの伝統的権威を否定し、彼らと戦うことによって、新たな国家を創り出そうとした、といういわば信長を「革命児」と捉える見解である。

とある。「太平洋戦争前では」というか、ずっと前からだが(『日本外史』ではバリバリ勤王家になってる)、信長が朝廷を復興させたという勤王論があったのはその通りだと思う。それが戦後は「公武対立史観」になったという。そう言われると、何かそんな感じになってくるけれど、冷静になって考えると「公武対立史観」がどういうものなのか俺は全く無知なのであった。


確かに信長は「革命児」とされ、中世を破壊し後継者の秀吉・家康によって近世社会が作られたと語られてきた。けれど、天皇・朝廷と対立したという主張や、その根拠となる具体的事例が何なのかを全く知らない。一体誰がそれを唱えていたのだろうか?


織田信長―中世最後の覇者』(脇田修)は1987年初版、つまり約30年前に書かれたものだが、天皇・朝廷と信長が対立していたとは書いてない。

たしかに門地もなく台頭してきて天下をおさえようとした信長は、朝廷を優遇しているが、それは彼の勤王家であることを証明するものではない。このしたたかな武将は、天皇の権威を徹底的に利用しようとした「勤王」家であるということであった。

とは書いている。信長は戦前に言われたような意味での勤王精神溢れた勤王家ではないが、天皇は利用価値があるので「勤王」だった。ということだ。すなわち形式的なものであっても「勤王」なのであって、対立したとは書かれていない。

また、織田政権が安定してくるにつれ、天皇の権威も増すといった、相互補完の関係にあった。


俺が天皇・朝廷と信長が対立していたという主張を認識するようになったのは、多分90年代終わりから2000年代初めの頃。信長は天皇を超えようとしていたというような話を当時よく見かけた。そのために信長は神になろうとしたとか、清涼殿の天皇天守閣の信長が見下ろす形になるとか言われてたと思う。その他あらゆる出来事が天皇と信長が対立したとする根拠と見なされていた。馬揃えとか、暦問題だとか、譲位延期だとか。その頃はまだ専門書はあまり見てないから、それらの主張が学者によるものか、それとも在野の研究者によるものかあまり重視してなかったし、それらの説がいつ誰が主張したものなのかも調べようとしなかった(実のところ今も良く知らない)。ただ脇田氏の30年前の著書にはそんなこと一切触れられてない。その後か、前からあったとしても注目されたのはやはりここ10〜30年以内ではないのだろうか?(たった一冊しか見てないから自信ないけど)。


本当に、戦後はおおむね「公武対立史観」で捉えられてきたのだろうか?また「公武対立史観」と呼べるものがあったとして、それは90〜2000年代に盛り上がっていたものと同じものなのだろうか?


信長については結構長いこと関心を持って本なども読んでいるけれど、まだまだ基本的なことすらわかってないことに気づいた今日この頃。