進歩史観の再構成

しつこいようだけれどこれは本当に重要なことだと思うので。


まず石母田正という学者が荘園制を古代的なものと定義して、荘園制が打倒された後に封建制(中世)が確立するとした。その時期がいつなのかということで論争がなされ、荘園制の本質が名田であるという考えから、名田の経営が武士や寺社であろうとも古代的なものだという考えが主流になって、安良城盛昭という学者が太閤検地に至るまでは「古代的」であったと主張した。すべてはここから始まるといってもよいだろう。


豊臣秀吉が「古代」を終らせた英雄となったのだ。ただしそれ以前の時代を「古代」と呼ぶことは浸透せず一般に「中世」と呼ぶので、秀吉が中世を終らせて近世が始まったということになるわけだ。


しかし現在では秀吉よりも信長に「中世を終らせた革命児」という形容詞が冠せられている。それがなぜなのかは良くわからないけれど、本来は低い身分出身とされる秀吉の方が革命児として称えるほうが都合良いはずだけれども、秀吉には大陸進出という「汚点」があり、さらに秀吉は戦前・戦中に英雄視されていた。そのあたりが戦前を否定したいという理由で受けが良くなかったのではなかろうか。


一方、信長は父の葬儀でのエピソードや比叡山焼き討ちなどの逸話がある。それを古い慣習や制度への反逆と解釈すれば「革命児」としての素質にぴったりあてはまる。また秀吉ほど低い身分ではないけれど、尾張守護の下の二つの守護代家のそのまた下という地位の生まれであって高くもない(実際の勢力は決して小さくはなかったが)。また尾張の「田舎出身」とも強調されるのも既存の体制への「反逆児」とするのに都合がよい(清須は当時日本有数の大都市だけれど)。


そんなこんなで、秀吉は信長の路線を踏襲しただけだとみなして信長こそが「革命の英雄」ということになったんだろうと思われる。


で、この「革命児信長」のイメージが出来上がると、そのイメージはさらに膨張していき、信長のしたことは革命と結び付けられ解釈される(別の解釈が可能であっても都合良く解釈される)。そして遂に、信長は天皇を廃して取って代わるつもりだったという説も登場してピークを迎える。


しかし、ここまで来ると「ちょっと待てよ」という意見も登場しはじめる。さすがに皇位簒奪説は無茶だろうというところから、信長と朝廷が対立していたという説にも疑問が出され、さらにそれ以外の信長に対する既存のイメージにも疑いが持たれるようになってきた。それは信長観の変化に留まらず、進歩史観そのものの危機でもあった。時代は既にソ連崩壊後であり、進歩史観が傷付けば立ち直ることは困難でありそのまま崩壊する(かに見えた)。


だが、どうやらそうはならなかったようだ。進歩史観は意外にしぶとい。信長は革命児の座から引きずりおろされようとしている。進歩史観論者はそれに抵抗する道を選ばず、逆にそれを積極的に受け入れようとしている。ただしそれは進歩史観を放棄したわけではなくて、革命の主役を交代させるという方向で再構成しようとするものであろうと思われる(それによって信長観を見直す動きが進歩史観に飲み込まれようとしている)。


では代わりの革命の主役は誰になるのかといえば、秀吉を押したてようとする動きが少しあるように思われる(元々はそうだったわけだし)。だが秀吉は今でも「進歩的な人々」には受け入れがたい人物のように思われるので成功するかは微妙だろう。とすると「革命は1人の力によって成し遂げられたものではない」的な考えが最も受け入れやすそうである。


てなわけで、歴史学界が進歩史観から脱するのはまだまだ先のようだ…