「加志の和都賀野」考(その4)

ツイッターにて『標註伊賀名所記』という史料を知る。 『伊賀名所記』とは能登永閑という戦国時代の連歌師が書いたものとされ、それを天保14(1843)年に入交省斎という人物が標柱を加えたものらしい。Google Booksで読むことができるけれども、俺の能力では読みこなせない。


一応俺なりに「和歌山」の項を解読してみる。


(本文)
和歌山(または若山)浄見原天皇(天武)と大友皇子皇位を争ったとき(中略 というか解読できない。伊賀国大友皇子の母の故郷云々)、大友皇子は浄見原(天武)を追ってこの国に至り、この和歌山で陣取りをした所を今に浄見○御所という。※だと思うが自信なし。


(標柱部分)

『延長風土記』に伊賀郡和歌山は松柏等の良材が出てまた鳥獣が多い。浄見御所が有り、浄見原(大海人皇子天武天皇)と大友皇子が戦った所である。中池明神という神が有り、これは猿田彦垂迹したものである。と書いてある。※『延長風土記』とは「925年(延長3)12月の太政官符(だいじょうかんぷ)によって進上ないし新たに制作されたもの」(コトバンク)。ただし、ここで取り上げられてる『延長風土記』が本当に平安時代に成立したものなのか俺にはわからない。なお「和歌山」が、現在の「我山」のことだと入交省斎が考えているのは疑いないが、『延長風土記』の和歌山がそうだとは限らないと思われ。現在の我山に天武天皇浄見原御所跡があるそうだが、それと『延長風土記』の浄見御所が同じだとも限らない。和歌山=我山説によって後付けされた可能性も無くはないように思う。


『准后記』に和歌山は浄見原の戦場だとある。※『准后記』という史料がどういうものなのか不明。検索して出てくる『准后記』は『満済准后日記』だけど多分違う。これも和歌山が我山なのかは不明。


『伊賀史』に天武天皇大友皇子が戦い「(浄見)原」に戻ったときに和歌をうたった。「風早や伊勢の神…(書いてあるけど読めない)」故にこの地を和歌山と号す。祭神は猿田彦。※これも和歌山と我山が同一か不明。


「好門斎」は和歌山(今に云う阿我山)は按ずるに『准后記』の和歌山のことで、今に「城山」「御殿山」と云うのも全て同じ山のことであると云う。※「好門斎」とは藤堂元甫のこと。(1683−1762 江戸時代中期の武士)。


以上


全く自信はないけれど、俺の読解力では、和歌山と阿我山(我山)を最初に同一としたのは藤堂元甫で、入交省斎はそれにさらに考察を加えたということなのではないかと思われ。