「百姓=農民ではない」という網野史観はよく知られている。網野史観を受け入れない人でも「百姓=農民ではないなんてことは元から知っている。しかし人口の大半は農民だった」というような批判をするのであって、「百姓=農民ではない」ということを否定しているわけではない。
『真書太閤記』によれば、父の「弥助昌吉」は「傘張り」を生業としているので農民ではない。
他はどうなっているのか見てみると、
○『絵本太閤記』では父の「弥助昌吉」は「膝口を深く射られ」足軽を辞めたあと剃髪して「築阿弥」と号したとあり、農民であるとは書いていない。
○小瀬甫庵の『太閤記』には、父は「築阿弥」とあり、職業は書いていない。
○『豊鑑』では「郷のあやしの民の子なので父母の名も誰かは知らない」とある。
○『太閤素性記』では、父は「木下弥右衛門」で、織田信秀の「鉄炮足軽」だったが、負傷して「百姓」となったとある。
この中で「百姓」と書いてあるのは『太閤素性記』だけだ。そしてもちろん「百姓=農民」ではない。
ところが、たとえば小和田哲男著『豊臣秀吉』(中公新書)を見ると、
もし『太閤素性記』が記すように、秀吉の父が「木下弥右衛門」であったとしたら、「百姓」は「百姓」でも、「名字の百姓」といわれる苗字もちの百姓であり、農民のなかではかなり上層部であったことを示していることになる。
などと、「農民」になってしまっている。そして歴史ドラマなどでも、農民の子とされてしまっているのだ。
これって、いわゆるひとつの「歴史の改竄」というものではなかろうか?
歴史学者や歴史愛好家の中には『絵本太閤記』や『真書太閤記』を(さらに『甫庵太閤記』まで)、史実を捻じ曲げた俗書といって見下すような態度をとる人をしばしば見かけるのだが、そういう自分はどうなんだと問いたい。
※ ところで、上記の史料が史実を反映していると仮定しての話だが、弥助と築阿弥は実は同一人物で、秀吉の実父は在家の僧であったという可能性は結構あると思う。また『太閤素性記』はこの中ではそれなりに信頼のおける史料と一般にみなされているようだけれど、俺の見るところでは、逆に一番怪しい史料だと思う。
※、なお、秀吉が「落胤説」を唱えたという話を良く見かける(上記の小和田氏の著書にもある)が、俺にはどう見てもそれが「落胤説」だとは思えないのである。
⇒幻想の「秀吉ご落胤説」
⇒幻想の「秀吉ご落胤説」(その2)
秀吉は自分が落胤だと明言していないだけでなく匂わせてもいないのだ。秀吉が言いたかったことはそういうことではないと確信している。これも、また現代の歴史家の「でっち上げ」であると俺は考えている。