迹見首赤檮 (補足その3)

迹見首赤檮(補足その2)の続き


捕鳥部万の死体を朝廷は八つ裂きにして八カ国に曝せと命じた。


ところで、江戸時代に書かれた『広益俗説弁』に「垂仁天皇御宇八つの日出しを射落さしめ給ふ説」という記事がある。

俗説云、垂仁天皇の御宇に九つの日輪出でしかば、天文博士めしてうらなはせしめらるゝに、北のはづれなるはまことの日輪にて、南にならびたる日輪は烏のばけたるにて候。此烏は地より八町上に在るべし。射手に勅ありて射させらるべきか、然らずば天下の物怪なるべしと奏しける故、さもあらばとて射手八人に宣下ありければ、八人の射手共武蔵国入間郡に高き棚をかまへ梯をかけてのぼりける。是日本にて梯のはじめなり。ころは垂仁帝十八年二月十日辰刻なり。帝もこれを叡覧ましまさんが為、武蔵国行幸あり。かくて八人の射手ども思ひゝに神祇を念じて箭をはなつに、八筋の箭八つの日にあたつて、筑紫日向国宮崎郡に落つる。それよりしてひうがとは日に向ふと書くなり。其後帝難波京に還御ありしかば、程なく八つの日輪を献じける。長さ一丈五尺の烏尾はば一丈六尺はしは三尺八寸あり。其烏の首をきらせて見給へば、二寸四方の玉一つ宛有り。其中にいづれも一寸六分の釈迦の像一体あり。かゝりしかば、八つの玉を一つは尾張国熱田の社に、一つは伊勢の外宮に、一つは紀伊の国日前宮に、一つは信濃の国諏訪社に、一つは豊前の国宇佐八幡宮に、一つは逢坂関明神に、一つは摂津国住吉社に、一つは帝の御宝蔵にこめられける。かの射手共は坂東八箇国を賜り、天文博士にもそこばくの所領を宛行はると云ふ。

近代デジタルライブラリーより書き起こし)

八つの太陽を射落として八カ国に保管したという話。八つ裂きにして八カ国に曝すという話と極めて似ている。


二つの話が同類だとすれば、捕鳥部万は太陽である


※江戸時代に書かれた史料だからといって無視するわけにはいかない。この話が仮に『日本書紀』の話を借用したのだとしても、それはそれで捕鳥部万が太陽だという認識があったことになるのだから。


ただし、それでもなぜ捕鳥部万という他に大した業績が無い人物が重視されているのかという疑問は残る。捕鳥部万の活躍は現代風に言えば「ラスボス」にあてがわれるべきものだ。


「ラスボス」にふさわしいのは言うまでもなく物部守屋だ。


とすれば、捕鳥部万とは実は物部守屋のことではないかという疑問が生じる。あるいは本来は物部守屋であったものが捕鳥部万に置き換えられたのではないか?


もちろん物部守屋は迹見首赤檮に射殺されたので、この時点で生きているはずがない。しかし、俺は守屋が赤檮に射落とされたという話は後に加えられたと考えている。


すなわち、本来の守屋合戦の伝説での物部守屋の最期は『日本書紀』における捕鳥部万の最期とされているものであったのが、赤檮に射落とされたという話が挿入されたことにより、その後の話が捕鳥部万のこととされたのではないかと思うのである。


そして、本来の話を復元することによって、物部守屋が太陽であったことがよりはっきりとすると思うのだ。


※なお死体が分割されるという話は中国では蚩尤(しゆう)、日本では平将門、日本神話ではカグツチの例がある。このあたりも考えてみるべきだろう。


(つづく)