「あざい」か「あさい」か(その3)

人物叢書浅井氏三代』(宮島敬一)に

なお、『東浅井郡志』は慶長一八年(一六一三)の伊豆神社湖北町)の鰐口銘「呰部郡」を「あざい」の初見とするが、これは出雲国からの寄進物である。

と書いてある。無知な俺はこの意味がわからなかったのだけれど「呰部」は「あざえ」と読み、岡山県真庭市の南西部にある地域のことだそうだ。そんで近江の近くではなくて遠い出雲で作られたものだから確実ではないということだろうか?


これが『東浅井郡志』のどこに書いてあるのかわからない、近代デジタルライブラリーには『東浅井郡志』の巻1が無いので、そこに書かれているのではないかと思われる。後日確認する。ただ巻4にその銘が載っている。

奉寄進近江州之内
 呰部郡早見郷
  伊豆之権現

  慶長一八年癸丑卯月吉日
自出雲國  松山長吉

「早見郷」は「速水郷」。「早見」という表記があったのだろうか?早見という名字のルーツはここだそうだ。
早見さんの名字の由来(名字由来net)。


「あさい」と読もうが「あざい」と読もうが漢字表記では「浅井」なのに、なぜ「呰部」と表記したのだろうか?本当は「あさい」なのに「あざい」と誤解したとしても普通に「浅井」としていれば誰も気づかなかったであろう。よくわからないけれど印象としては、宮島敬一氏の「出雲国からの寄進物」だからというのは、「あざい」否定の根拠としては弱いように思われる。


鰐口銘については全く無知だけれど、そういう本来の表記とは別の表記をする例はよくあることなのだろうか?短期間でも「呰部郡早見郷」という地名が(公式にではなくても)実際にあったということは無いのだろうか?あればそういう説明がありそうなもので、見当たらないから無いのだろうけれど…


備中国呰部に刀鍛冶がいることを出雲の職人は知っていただろうから「呰部」という字に馴染みがあったのかもしれない。


気になるのはこれが「慶長一八年」で、「南部史料」が「慶長一六年」で時期的に非常に近いこと。まさにこの時期に「あさい」から「あざい」になったのかもしれない。とはいえ史料が豊富にあれば別だけれど、そうではないのだろうから偶々の可能性が高そう。


わからん。