「歴史街道9月号」を買った。
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- 発売日: 2014/08/06
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最初に天正十年正月十一日付文書の大意。次に天正十年五月二十一日付文書の大意。ここでふと思った。
尚々、頼辰へ不残申
達候上者、不及内状候へ共
心底之通粗如此候、
不可過御計申候
の訳がないではないかと。これが伏線。だが細かいことは後回しにして、ざっと読んでからまた考えようと思った。何しろ検討しなければならないことが多すぎる。
で、大意は1ページで終って、次に同じく桐野氏の「元親の条件闘争、光秀と利三の決断…新発見の石谷家文書を読み解く」という記事があったので、それもついでにざっと見てみた。これもまた検討するところが多すぎる話なので、一度目は読むというよりは「見てた」のだが、最後に「元親書状は政変前に利三に届いたのか?」という小見出しがあり、言われてみればその通りだと関心を持ったのでここだけ読んでみた。
桐野氏は「十日間で届くのは時間的に無理かもしれない」とする。確かにそうかもしれない。それで桐野氏は
そうであれば、書状Bは光秀=利三の謀叛という決断にほとんど影響を与えなかったかもしれないともいえる。
と書いている。だが、この結論には異議を申し上げたい。
というのも、桐野氏が省略された部分、つまりこの記事の最初に書いた部分において、長宗我部元親は既に石谷頼辰にこの文書に書かれたことを伝えているのである。したがってこの文書が斎藤利三の元に届かなかったとしても、頼辰の側から利三に伝えている可能性があるのだ。
そこで問題になるのが「元親は頼辰にいつ伝えたのか?」ということだ。利三への書状と数日違うだけというのなら、やはり利三には伝わらなかったであろう。
そこでふと思い出したのが高村さんのコメント。
ご指摘のように利三が兄に相談に行って書状を預けたとしても、頼辰宛も一緒に伝来する筈なので、そこがこの文書の在り方に対するポイントになるような気がします。
なぜ、頼辰宛の書状が伝来していないのか?
それはそもそも「頼辰宛の書状が存在しないから」ではないか?
つまり何が言いたいかというと「頼辰へ不残申達候」というのは天正十年正月に頼辰が土佐に下向したときに伝えたということではないかということ。それなら頼辰宛の書状が存在しないのも無理はない。
だとすると、別の問題も解決する。1つは「来秋」の問題。もう1つは「明退申候」の問題。さらにもう1つは「東州奉属平均之砌、 御馬・貴所以御帰陣同心候」の問題。
これらは全て「正月に頼辰に伝えたこと」だとすれば解決するのではないか?
いかがであろうか?