荻生徂徠の「四神相応」論

荻生徂徠(1666-1728)の『詹録』に四神相応の記述がある。

選地トハ城地ノ選様ナリ北条流ニ繁昌ノ勝地防戦堅固守城堅固ト云ウアリ繁昌ノ勝地トハ北高ク南低ク南北長ク東西短ク東西南ニ川ニテモ海ニテモアルヲ云ト伝ヘリ謙信流ニハ四神相応ノ地ヲ繁昌ノ勝地トス四神トハ左青龍右百虎前朱雀後玄武ナリ左ニ流水アリ右に大道アリ前ニ袴池アリ後ニ山林アルオ四神相応ノ地トス

城下町における都市計画と基軸の設定―飯田を事例として― 松井 幸一
より


『落穂集』は江戸は四神相応の地であるとともに繁昌の勝地を兼ね備えているという意味に読める。一方『詹録』にはその地形が繁昌の勝地だと書いてある。また謙信流には四神相応と書いているけれど北条流に四神相応とは書いてない。おそらくは『詹録』の方が正しいと思われる。ただし『落穂集』を書いた大道寺友山が(誤解であろうと)江戸を四神相応の地と認識していたのは疑いない。


(追記)考えて見れば大道寺友山は「北条流」とは言っていないので、こっちの方が後北条氏軍学の本来の形なのかもしれない。