『落穂集』の解釈

一問曰、御当地の義ハ四神相応の勝地ニ是有旨(これあるむね)、世上ニ触レ候は弥(いよいよ)其通の事ニ候や。 答曰、北高南低く東西に流れ有を以て四神相応の地と古来より申傳候所、御当地ハ其旨に相叶ひ候上ハ四神相応の地と申し候、然(しかれ)トモ天下をもしろしめす御方の御座所と申ニ至てハ、繁昌の勝地と申場所ならでハ召べからざるよし、其子細ハ公方将軍たる御方ノ御座所へと天下万民入込申義ニ候ハハ、其所え在郷の者計(ものばかり)ニてハ事の用足不申(ようたりもうさず)、海川の運送自由にして諸国の荷物等も潤沢に寄あつまらずしてハ相叶ざるに依て、慶長年中東照権現様天下御一統被遊(あそばされ)候、相かわらす御当地を以(もって)御座城と被仰出(おうせだされ)たる御事の由、御当地の義ハ四神相応の地形ニ、繁昌の勝地を兼備たる場所からとも申べき哉(や)ニ承(うけたまわ)り傳(つたえ)候

落穂集巻1-3内閣文庫(ようこそ大船庵へ)


問 江戸は「四神相応の勝地」だと言われていますが本当でしょうか?
答 
1、北高南低で東西に流れがあることをもって「四神相応」の地と古来より伝えられている。江戸はそれに叶うので「四神相応」の地である。
2、しかし天下人がいる場所は繁盛の勝地でなければならない。その理由は公方将軍の御座所には天下万民が集まるのであるから、在郷の者だけでは用が足らず、海川の運送が自由で諸国の荷物が潤沢に集まらなければやっていけない。これが理由で慶長年中家康が天下統一しても相変わらず江戸を座城とした(そうだ)。
3、江戸は「四神相応」の地形に「繁盛の勝地」を兼ね備えた場所だから「四神相応の勝地」と言うべきだという話を聞いている。


つまり
1、江戸は「四神相応」の地である
2、江戸は「繁盛の勝地」なので家康は天下統一後も江戸から移転しなかった。
3、江戸は「四神相応」でなおかつ「繁盛の勝地」なので「四神相応の勝地」というと聞いている。


ということであって、家康が「四神相応」を意識していたのかはここからはわからない。古文はどこからどこまでが誰の意見なのかがわかりにくく、解釈次第で全く異なった意味になってしまうこともよくあるけれど、ここではっきり家康の意思だとわかるのは「天下統一後にも江戸から移転しなかった」ということのみであり、後は大道寺友山の意見および友山が伝え聞いた話だと考えるべきでしょう。その伝聞も家康がそう言っていたというような類の伝聞ではない。すなわち「四神相応」どころか交通の便が良いから江戸を選んだのだというのも、家康自身が言ったことではなくて「説」だと考えるべきでありましょう。


「然トモ」というのは、「江戸は四神相応の地というのは正しいが」ということであって「江戸築城の理由の一つだが」と解釈するのは無理ですね。質問が「繁盛の勝地」というのは本当かということなので「確かに四神相応だがそれだけでは四神相応の勝地とはいえない」ということを説明するための「然トモ」であります。



それはおそらく「北高南低く東西に流れ有」地形がすなわち「繁盛の勝地」だという見解を否定するためのものでありましょう。


既に書いたけれども、大道寺友山は「北高南低く東西に流れ有を以て四神相応の地」と言っているのに対して、荻生徂徠は「北高ク南低ク南北長ク東西短ク東西南ニ川ニテモ海ニテモアル」を「繁昌ノ勝地」とするのが北条流だといっている。すなわち同じ地形を大道寺友山は「四神相応だが繁盛の勝地では必ずしもない」と認識しているのに対し、荻生徂徠は「繁盛の勝地だが四神相応だとはしていない」ということで、著しく異なっているのであります。


大道寺友山は『落穂集』のこの記事の少し上を読むと北条流の祖である北条氏長と交流があることがわかるけれども、小幡景憲山鹿素行とも交流があるので、友山のいう「四神相応」はいろんなものがごっちゃになっている可能性もあるように思われ。当の北条氏長が何と言っているのか知りたいところだけれど未だわからず。


なお当時、江戸が「四神相応の勝地」と呼ばれていた理由が大道寺友山の説明しているような理由によるものかといえば、もちろんそうとは限らない。


※ ちなみに「繁盛の勝地」の要件というのは一見合理的な話のように見えるかもしれないけれど、呪術的なものの中にも理に叶ったものが含まれているという見方もできるわけで、呪術的なものと合理的なものが不可分であった時代においては、現代の視点で見れば合理主義のように見えて実際その萌芽があるにしても、その合理主義は「合理主義」とかぎ括弧に入れて論ずべきことであろうと思う。