古文書解読(その1)

専門家解釈との差異 - re:know
にある古文書解読にチャレンジ。なお俺は関東の歴史に全く無知。

 わさと申上候、さては一日御文くたし給候、かたたよりにて候ほとに、御返事にて申さす候、さてはわかきミさま御うつり、六月ニさたまり申候や、御めてたく候、しからは氏やすひたち口のてあハせ申されへきに、さたまり申候、御うつりまへに、をた原のしゆたち申候ハゝ、御うつりのさハりにもなり、申断候よし、上意も御さ候や、これによりまつゝゝゑんにん申よし、おほせいたされ、みなミへもすいうん院よりとゝけられ候とと越山申こし候、かやうに、おほせいたされ候事、をそれなからふんへつ申さす候、たゝをた一へんニ、御かたんとこそ存申候、そのゆへハ、わたくしも春中さうせつ申候とき、せいしを以申上候、氏やすの事ハふたつなく忠しん申され候、なにを以御きしんあるへく候や、又わたくしのさいしに、かさ井のさかひ、岩つきのさか井にあつて、小田ととりあい申候ハゝ、御うつりの証しのさわりにもなり申へきかと、おほせいたされたるハ、けにもさも御さあるへく候、すてにこかへ百里へたゝり、ひかしのゆミやに、小田原よりてあハせ申され候事まて、御うつりのさわりニなり申へきよし、おほせられ候事、さらに御理とも申へきニあらす候、たゝいかやうにあつてもうつし被申あるましき、御ゆふと存申候、さて又かくのことく 上意にも、御うちさまニもおほしめ候うへハ、たとへこれにてめつほう申候とも、御うつりまへ、人しゆしにもふ申ましく候、此のよし御申給へ、あなかしく
なをゝゝこのうへハをた原より人しゆこし申され候ハん事ハいかん、こなたより御うつりまへ、てあわせ候へとハ、けふにめつほう申候とも申ましく候、御心やすくおほしめされ候へと、さて又御あつかひハ、かしこまりいらす候ゑは、とにかくとく御うつりの事をさへ、御申あるへきと存候、さて又これへ手あわせ、御うつりしかるへきさハりにハなり申ましく候に、かやうにおほせられ候事、まつひろめいわくニ御さ候、わたくしの身上をかせき、御くらふなされ申候ハん事ハ、あるましく候、めつほう申候とも、こなたより人しゆしよもう申ましく候、
閏五月十九日/まさ勝公御判/宛所欠
(注記:古河公方者、氏広ノ婿公也、右、天文十九年庚戌閏五月十九日壬子四十七ノ御時也)
埼玉県史料叢書12_0145「結城政勝書状写」(結城家譜草案)


私訳

わさと申上候、さては一日御文くたし給候、かたたよりにて候ほとに、御返事にて申さす候、さてはわかきミさま御うつり、六月ニさたまり申候や、御めてたく候、

『特に申し上げます。一日(いちじつ)、御文を下されましたが、「片便り」なのでお返事しませんでした。さて、若君様の御移が六月に決定したのでしょうか?お目出度たいことです。』
※「若君」=足利義氏。幼名梅千代王丸。天文19年に数えで10歳。
※「片便り」先日の文書は上意下達の下文なので、形式として下文に対する返事はしなかったという意味だと思う。

しからは氏やすひたち口のてあハせ申されへきに、さたまり申候、

『「しからば」(北条)氏康が「常陸口」での「手合わせ」をすることが決まっています』
※「常陸口」とはどこのことか?
※「手合わせ」は勝負つまり合戦だと思う。結城政勝を助けるために氏康が援軍を出すことが決まっているという意味だろう。

御うつりまへに、をた原のしゆたち申候ハゝ、御うつりのさハりにもなり、申断候よし、上意も御さ候や、

『御移りの前に、小田原の衆が立つと、御移りの障害にもなるので、断るようにとの上意があるのでしょうか?」

これによりまつゝゝゑんにん申よし、おほせいたされ、みなミへもすいうん院よりとゝけられ候とと越山申こし候、をそれなからふんへつ申さす候、

『これにより、(氏康出兵を)まずまず延引するよう仰せがあり、「みなミ」へも瑞雲院(芳春院周興)より届けられたと「越山」が報告してきました。恐れながら分別が無いことです(道理をわきまえていないことです)。』
※「みなミ」は不明。瑞雲院は公方の使者と考えられるので北条氏の誰かだと思われ。
※「越山」不明。北条方の誰か(使僧?)だと思われ。
※ (追記7/23)ふと思ったんだけど「みなミ」とは「皆川美濃守」とか「皆川三河守」とかいった皆川一族の可能性は?該当する人物がいるのか確認できなかったけど。

たゝをた一へんニ、御かたんとこそ存申候、そのゆへハ、わたくしも春中さうせつ申候とき、せいしを以申上候、

『「ただ」小田に(公方様は)「一遍に」加担していると思います。その理由は「わたくしも」春に雑説があったときに誓紙をもって申し上げました』
※ 「一遍」は「一辺倒」(一方だけにかたよること)のことだと思われ。「ただ」は「ひたすら」。小田を依怙贔屓しているということだろう。
※ この「わたくしも春中さうせつ申候とき」とは結城政勝に対する良からぬ噂が春にあり、否定するための誓紙を提出したということではなかろうか。誓紙において「小田方の言い分だけをお聞きになってはいけません」といったような趣旨のことを述べていたのではないか?

氏やすの事ハふたつなく忠しん申され候、なにを以御きしんあるへく候や、

『氏康は代わりになるものがない「忠しん」です。何をお疑いになっているのでしょうか?』
※「忠しん」忠臣?忠信?


●ここが問題部分。

又わたくしのさいしに、かさ井のさかひ、岩つきのさか井にあつて、小田ととりあい申候ハゝ、御うつりの証しのさわりにもなり申へきかと、おほせいたされたるハ、けにもさも御さあるへく候、

『また「わたくしのさいし」に、葛西の境、岩槻の境において小田と「取り合い」をするのであれば、御移りの「証し」の障害になると、仰せ致されるのであれば、それはその通りだと思います』
※「わたくしのさいし」とは「私の細事」。「わたくし」とは「(公的ではない)わたくしごと」で「細事」はつまらないこと。些事。であろうと思う。

すてにこかへ百里へたゝり、ひかしのゆミやに、小田原よりてあハせ申され候事まて、御うつりのさわりニなり申へきよし、おほせられ候事、さらに御理とも申へきニあらす候、

『すでに古賀から「百里」離れた、東の「弓矢」に、小田原より「手合わせ」する事まで、御移りの障害になると仰せになるのは、理にかなった話ではありません。
※「弓矢」=戦争
※「手合わせ」=勝負
※「百里」一里の長さがわからない。1里を36町とすれば約400㎞でありえないので誇大表現の可能性があるが、1里=6町なら約65.5㎞に「常陸口」があることは現実的な数字としてありえる。


※※ つまり、葛西や岩槻で小田と小競合いをすることが「御移り」の障害になるというのならば。それは尤もなことだけれども、古河から遠く離れた「常陸口」で合戦をするのが障害になるというのは、道理にかなってないという意味であろう。
※ よって「かさ井のさかひ、岩つきのさか井にあつて、小田ととりあい申候ハゝ」は「比較のための例え」であり、現実にそういうことが起り得るということではない、と考えられる。


※※※ここまでの大意
古河公方足利晴氏)は、北条氏康が結城政勝を援けるために出兵することを延引させようとした。その理由は6月の若君の御移りの障害になると考えているからであろうと政勝は推測し、納得がいかないと不平を訴えている。


※ 問題点
古河から見て結城城も小田城も葛西より近い。古河より東へ「百里」離れた「常陸口」は葛西・岩槻よりも離れている場所だと考えられる。それはどこで、なぜそこで小田氏と戦争をする必要があると結城政勝は考えるのか?


ちなみに古河から東へ65㎞だと小美玉市のあたり。青戸は約50㎞だからそれよりも遠い。なお小美玉市には基地で有名な「百里」という地名があるが、地名由来は

江戸時代の水戸藩主が、九十九里浜に対抗して名づけた[2]。
この地をとおり水戸と潮来を結んでいた百里海道から名付けた(この時代、1里 = 約650m)[2]。
百里 - Wikipedia

だそうだから偶然の一致だろうが気にはなる。古河から百里だからではないのか?と考えたくなるが、これ以上どうしようもない。


※ なお小美玉市常陸小川の城主は小田氏治の叔父(小田政治の弟)の小田左衛門尉だそうだ。

これに怒った小田氏は薗部氏を小川城から追い払い弟の小田左衛門尉を城主に据えた。天文15年(1546年)薗部兼彦は小川城の奪還に成功したが、元亀2年(1571年)に再び失い結城氏を頼った。

常陸・小川城(城郭放浪記)

天文19年時点での城主は薗部兼彦で小田氏と対立していたということになる。


※ 常陸国小河郷は古来交通の要衝であった。最初は古河から東へ百里といえばこの辺りだろうと目星をつけただけだったけれども、「常陸口」がここの可能性が高いように思えてきた。