古文書解読(その2)

引き続き私訳を続けるべきだが正直しんどい。

たゝいかやうにあつてもうつし被申あるましき、御ゆふと存申候、

※ 「御ゆふ」の意味がわからない。大意は「北条氏康の出兵は御移りの障害となるという公方の考えは何があっても動かしがたい」ということだと思われるので「御ゆふ」は「御憂」か?

さて又かくのことく 上意にも、御うちさまニもおほしめ候うへハ、

※ 「上意」は公方足利晴氏だが「御うちさま」は誰か?おそらくは足利晴氏の継室で北条氏康の異母妹の芳春院(若君の母)であろう。先に北条氏出兵延引を「みなミ」へ伝えた瑞雲院は後の芳春院周興なので、足利晴氏の使者というよりも、芳春院と若君に近い人物として関わっているのではないか?
『さてまたかくの如く、公方様も芳春院様も考えておられる上は』

たとへこれにてめつほう申候とも、御うつりまへ、人しゆしにもふ申ましく候、此のよし御申給へ、あなかしく

※「しにもふ」がわからない。後に「人しゆしよもう(人衆所望)」とあるので、ここも同じか?
『たとえこれにて滅亡するとしても、御移り前に、北条の援軍を望むことはありません。このようにお伝えください』
※ 「滅亡」とあるのは、「たとえ死んでも〇〇しない」のような慣用句のニュアンスか?それとも事実として(少々大げさにしても)滅亡する危険があったのか?後者の場合、戦場として予定されているのは古河から東へ百里離れた場所で、結城城からも遠く離れているはず。そこでの戦争が「滅亡」を招きかねないとはどういうことか?
※ そもそも「滅亡」するのは結城氏なのか?その場所にいる結城氏と親密な在地領主が小田氏に迫られて存亡の危機にあり、その救援を結城氏と北条氏がする予定だったという可能性があるようにも思えるのだが…


まだまだ原文は続くがここまで。問題部分に戻る。

(A)又わたくしのさいしに、かさ井のさかひ、岩つきのさか井にあつて、小田ととりあい申候ハゝ、御うつりの証しのさわりにもなり申へきかと、おほせいたされたるハ、けにもさも御さあるへく候、

(B) すてにこかへ百里へたゝり、ひかしのゆミやに、小田原よりてあハせ申され候事まて、御うつりのさわりニなり申へきよし、おほせられ候事、さらに御理とも申へきニあらす候、

(A)と(B)は繋がった文章であり、別個に解釈しては、誤ってしまうように思われる。すなわちこれは「(A)ならば理に叶っているが(B)ならば理に叶っていない」という、両者を比較したものであろう。よって(A)と(B)は対照的になっているとして解釈すべきである。


高村不期さんの記事によれば、埼玉県史料叢書は「わたくしのさいし」が「私の妻子」としているそうだ。しかし、このような文脈で、「私の妻子」が出てくるというのは非常に不自然と言わざるをえない。これが「私の妻子」であれば、(A)と(B)は非対称になってしまうが、総合的に見れば(A)と(B)は対称的な文章になっていると思わざるをえないのであり、やはり「私の妻子」という解釈は違うであろう。


さらに言えば、そもそも「私の妻子」とは「結城政勝の妻子」ということになるだろうけれども、「結城政勝の妻子」を「私の妻子」と表現することに非常に違和感がある。そんな用例が他にあるのだろうか?古文書に通じてるわけではないけれど。まず「私の」などとは書かず「妻子」とのみ書くのではないか?それで現代人が読むと「誰の妻子なんだ?」と悩むことになるというのがありがちではないかと思う(実際、この文書の「滅亡」とは誰が滅亡することなんだ?と俺は悩んでるし)。また「私の」という意味で書くとしても。へりくだって「拙者」といった類の表現をするように思われ、「私の妻子」なんて表現は非常に近代的に感じるのである。


実際、高村不期さんが提示する「さいし」の事例では

こゝもとの父母さいしなと御たすけなされよろしく候ハんや

白倉うちしにふひんにて候、さいしにねん比有へく候也、

であり、この「さいし」は「妻子」のことだと考えられるが、上は「ここもとの」であり、下は誰の妻子か書かれておらず、文脈から「白倉」の妻子だとわかるのであり、「私の妻子」などという表現はやはり不自然といわざるを得ない。



この文書に「わたくし」は、「わたくしも春中さうせつ申候とき、せいしを以申上候」「わたくしのさいしに」「わたくしの身上をかせき」と三回出てくる。このうち「わたくしの身上をかせき」は「大義名分の元に戦争をするけれども、実際は私利のためにする」というニュアンスが感じられ、すなわちここでの「わたくし」は「公に対する私」であろうと思う。


一方、「わたくしも春中さうせつ申候とき、せいしを以申上候」の「わたくし」は結城政勝のことで「自分も」と普通に解釈できないこともないけれども、これも「公に対する私」で、良からぬ噂が立ったので、(公方の命令ではなく)私的に誓紙を提出したと解釈することも可能ではないかと思う。


とすれば、「わたくしのさいし」の「わたくし」もまた、「公に対する私」であり、「北条氏の私利私欲のために」と解釈するのが妥当であろうと考える。天文19年時点で葛西は北条氏の支配下、岩槻は北条氏に対抗していた太田氏の支配下にあるが、天文17年に北条方に付いたという(正直詳しくないけど)。
太田氏資 - Wikipedia


「さいし」とは何かというのは難しい問題だが「細事」ではないかと俺は思う。「細事」とは「ちょっとしたこと。つまらない事柄」という意味だから、既に書いたように(A)と(B)は対照的になっているのであり、葛西・岩槻の境においては「(私的な)ちょっとしたこと」でも御移りの障害になるけれども、遠く離れた「常陸口」であれば大規模な(私的ではない)戦争は障害にはならないということを言いたかったのではないだろうか。


なお、葛西・岩槻の境で北条氏と小田氏が「とりあい」をすることが現実にあり得るのかといえば、あり得ないのだろうけれども、これはあくまで「常陸口」での戦争が正当なものだということを主張するために持ち出したたとえ話なので、あり得るかあり得ないかは重要なことではないと思われる。


また、「御うつりの証しのさわり」だけれど、この解釈はニュアンスとしては何となくわかりそうだけれども、正確な解釈は難しい。ただ、この文書で「障り」という言葉は何度も出てくるのに対し「証しの障り」はここだけであることと、文書全体の文意を鑑みれば、結城政勝は北条氏康の出兵が「御移り」の障害になぜなるのか理由がわからない。ただし葛西・岩槻での戦いであれば「証し」の障害になるだろうという理解はできるということだろう。では「証しの障り」と何かといえば、「公方の若君の御移りという公的なものではなく、実際は北条氏の私利私欲のための御移りだろうと世間に受け取られかねない」ということではなかろうか?それに対し「常陸口」での戦いが、北条氏の私利私欲のためと受け取られる可能性は低く、若君の御移りに疑いがかけられることはあり得ず「証しの障り」にはならないので、「障り」があると公方様は考えておられるようだが、それは「証しの障り」ではない何らかの障りがあることになるはずで、しかしそれが何なのかさっぱりわからない(本当は小田を贔屓してるからではないか?)。といった結城政勝の考えが反映しているのではないだろうか?