丑の日にかごでのり込む旅うなぎ

まず基礎知識として土用は夏にだけあるのではない。

土用(どよう)とは、五行に由来する暦の雑節である。1年のうち不連続な4つの期間で、四立(立夏立秋立冬立春)の直前約18日間ずつである。
土用 - Wikipedia

したがって「土用丑の日」といっても夏だとは限らない。なお丑の日は12日に一回巡ってくるので18日のうち2回丑の日がある場合もある。


たびたび引用されている『明和誌』には

一、近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す、寒暑とも家毎になす。安永天明の頃よりはじまる。

「寒暑とも家毎になす」とはあるけれど「寒中丑の日に」とあり冬の土用がメインであろう。そもそもうなぎの旬は冬である。


なお「べにをはき」とは「丑紅」のこと。

寒中の丑の日に買う紅。口中の荒れを防ぐといわれる。寒紅。
デジタル大辞泉の解説

土用丑の日だけではなく冬の丑の日に売られる紅。


落語の中の言葉137「鰻(下)ー土用鰻」 落語大好き/ウェブリブログ』という記事によれば、『東都歳時記』(天保三年1832序)の「巻之四 冬之部 十一月」に

 寒中丑の日 ○丑(うし)紅(べに)と号けて女子、紅を求む。
 ○諸人、鰻鱺を食す。

とあるという。一方「巻之二 夏之部 五月」には鰻を食べるということは書いてない。すなわち天保三年頃にはまだ夏に鰻を食することはまだ一般的ではなかったと考えられる。もちろん書いてないだけという可能性もなくはないけれども。


ところで上の記事によれば、『明和誌』(1822)より前の文政四年(1821)頃の『柳多留』(川柳集)に

  土用丑のろのろされぬ蒲焼屋   (柳74)
  丑の日に籠でのり込む旅うなぎ  (柳73)

という句があるという。「旅うなぎ」とは江戸前ではなく他所から仕入れたうなぎのこと。丑の日の需要で江戸前だけでは足りないので他所から仕入れたのだろう。江戸っ子は旅うなぎを格下に見ていた。今でいう中国産みたいなものだろう。ただし「旅うなぎ」という言葉自体は『物類称呼』(安永4年 1775)という本に既にあるという。安永といえば『明和誌』で丑の日にうなぎを食べ始めた頃ではある。ただし丑の日に足りないから「旅うなぎ」なのかはわからない。


で、こういう川柳があるから当時から風習があったのかといえば、川柳には季節が書いてない。だから夏とは限らない。先の『東都歳時記』で考えれば、夏ではない可能性は十分すぎるほどある。


夏のことだと明確にわかるのは天保8(1837)年刊の『天保佳話(丈我老圃)』。

土用ノ丑ノ日ニ鰻鱺ヲ喫フ事ハ鰻鱺ハ夏痩ヲ療スルモノナレバナリ殊トニ丑ハ土ニ属ス土用中ノ丑ノ日ハ両土相ヒ乗ズルモノナリ万葉ニ憶良等ニ我モノ申ス夏痩ニヨシト、イフナルムナギメシマセト、アレハ古シエヨリ夏痩ニハ鰻ヲ食フ事ト見エタリウム相ヒ通ス

丑の日にうなぎを食べるのは夏痩せ対策だという。なお憶良とあるが、大伴家持

石麻呂に吾物申す夏痩せに良しといふ物ぞ鰻漁り食せ

推測するに、まず安永天明の頃より土用丑の日にうなぎを食べる習慣が始まった。ただしそれは夏のことではなく主に冬のことだった。夏の土用に食べるのが一般的になったのはまさにこれが書かれた天保年間頃からではないだろうか?


それを裏付けるものとして、『山形経済志料. 第2集』(大正10-14)という史料がある。山形の鰻屋の主人の談話を収録したもの。

自分の稼業は父の定治が始めたもので私と二代である、父の話に依れば天保年間(今より九十年前)以前には丑の日になつたとて別に鰻を食べるやうな事はなく、商賈は至て閑散なものであつた。それが天保年間以来弗々売れるやうになり、天保の末弘化嘉永年間には最も繁盛し、土用の丑の日には何んでも彼でも鰻でなければならぬと言ふやうになつた。その由来は詳かではないが丑の日に食べると其年は決して病没に襲はれぬと傳へられてゐるのだ、

とある。ここには夏の土用とは書いてないけれども、この文の前を見れば夏の土用で疑いない。江戸から離れた山形のこととはいえ、天保年間からはじまったというのは、やはりこの頃から全国的に流行したと考えて良いのではなかろうか?「丑の日に食べると其年は決して病没に襲はれぬ」というけれども、それなら冬の土用に食べてもいいわけで、想像するに山形では季節に関わらず丑の日に鰻を食べる習慣が無かったものが、「夏の丑の日」に食べるという風習が伝わってきたということではなかろうか。