厭離江戸前大かば焼き

昨夜テレビ見てたら、歴史学者磯田道史氏が、土用の丑の日に鰻を食べる風習は平賀源内が広めたという話を「有力な説」として紹介してた。だが、歴史学的には到底「有力な説」ではない。この話は史料では確認できない。国立国会図書館デジタルコレクション「平賀源内」で検索して土用丑の日の話が出てくる一番古いものは大正2年の『神田の伝説』。
国立国会図書館デジタルコレクション - 神田の伝説
「伝説」とある通り、これは神田生まれの清水晴風が。聞いた「伝説」だと思われる。

又今日夏の土用の丑の日に、鰻を喰べるといふ習慣の起りは源内の奇才からだといはれて居る。

なお、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている1949年までの平賀源内の伝記でこの話が載ったものは一つもない。『人生百課事典 : 常識読本』(昭和11)に「俗説があります」として、『魚の話』(昭和23)に「ものの本に書いてあるところによると」として紹介されている。この話が広まったのはそう昔のことではないと思われる。


ところで、源内と土用丑の日の関係は史料で確認できないということを俺が知ったのは、

明治期まで重版が繰り返されたベストセラー戯作集『風流志道軒伝』(平賀鳩渓という名で著した自著)で、「厭離江戸前大かば焼き」、つまり江戸前の蒲焼きの無い生活なんて考えられない、とも記している。とはいえ、源内と「土用の丑の日の鰻」の関係については、明記されている史料は存在せず諸説あるようだ。

平賀源内│日本の食文化と偉人たち|キリン食生活文化研究所|キリン
で、
土用の丑の日(その5)
において引用した。この前半部分、

『風流志道軒伝』(平賀鳩渓という名で著した自著)で、「厭離江戸前大かば焼き」、つまり江戸前の蒲焼きの無い生活なんて考えられない、とも記している。

は、特に気にしてなかったのだが、昨日調べてたら、これがまた大ウソであった。

医者の不養生坊主の不信心、昔よりして然り。出家もと木のまたからも出ず、旨い物の旨いと、面白い物の面白いは皆同じ事なり。椎茸干瓢長芋蓮根、南無阿弥豆腐の油揚にて、中々心にたらざれば、柔和にんにく葱ざふすゐ、むき玉子松魚(かつを)の雉焼、厭離江戸前大かば焼き、鯵本不生の早鮨を、じんばら腹のはれる程に取り込み、

とあり、かば焼きが「旨い物」であることは違いないが、見ての通り「坊主の不信心」について書いてるのであった。なお「厭離江戸前大かば焼き」が「厭離穢土」のダジャレであることは言うまでもない。

仏語。煩悩(ぼんのう)にけがれた現世を嫌い離れること。おんりえど。→欣求浄土(ごんぐじょうど)
デジタル大辞泉の解説

言ってることと、やってることが全然違うじゃないかという皮肉だろう。ついでに「鯵本不生」は「阿字本不生」のダジャレ。「じんばら腹」は「ジンバラ ハラバリタヤ ウン」から。
阿字本不生(あじほんぷしょう)とは - コトバンク
光明真言 - Wikipedia

生臭坊主
《魚肉・獣肉など生臭いものを食べる坊主の意から》戒律を守らない品行の悪い僧。また、俗気の多い僧。
デジタル大辞泉の解説

魚肉はもちろん「にんにく」「葱」は匂いの強い野菜で出家者が食べることは本来は禁じられていた。



なお平賀源内説の出典が『明和誌』にあるという記述がウィキペディアにあり、それが拡散してたのだが、現在のウィキペディアでは

平賀源内説の出典は不明で、前述の『明和誌』にあると説明するケースもあるが、『明和誌』には記されていない[5]。
土用の丑の日 - Wikipedia

となっている。



ところで『明和誌』の記述は

一、近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す、寒暑とも家毎になす。安永天明の頃よりはじまる。

である。土用の丑の日に「うなぎ」を食べる習慣が安永天明の頃よりはじまるとあるけれど、「うなぎの蒲焼」とは書いてない。「寒暑とも家毎になす」だから夏だけ食べるという話でもない。しかも「家毎」とあるので、家で食べたのだろう。蒲焼は家で簡単に作れるものではない。鰻屋で蒲焼買って家で食べたという可能性はもちろんあるが、そうではない可能性もある。


なおウィキペディアにはかつて

蜀山人説 - やや時代が下がった天保10年(1839年1840年)の『天保佳話』(劉会山大辺甫篇)では、やはり鰻屋に相談をもちかけられた蜀山人こと大田南畝が、「丑の日に鰻を食べると薬になる」という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したという話が載せられている。

と記されていたが、現在は

蜀山人説 - 鰻屋に相談をもちかけられた蜀山人こと大田南畝が、「丑の日に鰻を食べると薬になる」という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したという話が天保10年(1839年 - 1840年)の『天保佳話』(劉会山大辺甫篇の狂詩集)に載せられている、と説明するケースがあるが、同書にそのような記載はいっさいない 。また、天保8年に刊行された同名の随筆集『天保佳話』を出典にあげることもあるが、同書にも大田南畝と土用丑の日を結びつける記述はいっさいない。ただし、大田南畝の作品を集めた『紅梅集』(全集第二巻所収)には、土用丑の日とは関連付けていないが、鰻屋の「高橋」を讃えた狂歌と狂詩が掲載されている[6]。

となっている。『天保佳話』(劉会山大辺甫篇)見たら。そもそも主に上方のことが書かれており、江戸の大田南畝と関係ない。一体どこからどうしてこんな話が出てきたのか全く不明。もう一つの随筆集の『天保佳話』(丈我老圃)は土用丑の日については一応書いてあるが大田南畝は出てこない。
天保佳話


なお『天保佳話』(丈我老圃)で注目すべきは「夏痩ニハ鰻」と書いてあることで、明らかに夏の土用丑の日のことを指している。『明和誌』(1822)においては、「寒中丑の日に」「寒暑とも家毎になす」だったものが、ここでは夏になっているのは、1822年から1837年(天保8)の間に大きな変化があったことを伺わせる。


(追記 16:07)
ところで、「江戸前」でなぜ「大かば焼き」なのか?「寿司」ではないのか?という疑問があるかもしれないが、本来「江戸前」とはうなぎのこと。寿司がとって変わったのは文政年間(1818‐30)以降のこと、すなわち源内死後のこと。この話でかば焼きが出てくるのは、うなぎが最高に美味いからというより「厭離穢土」のシャレの都合上だろう。