土用の丑の日(その5)

(注:一番下に訂正あり)


平賀源内が鰻屋に請われて「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーを考案したということが『明和誌』に書かれているというのが事実でないことはほぼ確実だ。


では、この話は一体どこから来たのか?


キリンホールディングス_キリン食生活文化研究所_日本の食文化と偉人たち(平賀源内)

明治期まで重版が繰り返されたベストセラー戯作集『風流志道軒伝』(平賀鳩渓という名で著した自著)で、「厭離江戸前大かば焼き」、つまり江戸前の蒲焼きの無い生活なんて考えられない、とも記している。とはいえ、源内と「土用の丑の日の鰻」の関係については、明記されている史料は存在せず諸説あるようだ。

「明記されている史料は存在せず」!


史料が存在しないのに、なぜ我々はその話を知っているのだろうか?


一応、史料ではなく口伝で語り継がれてきたという可能性があるにはあるけれど、それよりも誰かがでっちあげた可能性の方が遥かに高いだろう。


俺が子供の頃には平賀源内はエレキテルの人であった。70年代後半から80年代にかけて糸井重里などのコピーライターが注目され、その後に平賀源内は元祖コピーライターみたいな話が注目されるようになった。


だけど俺の記憶では、その頃に平賀源内が「土用丑の日」のコピーを考案したという話は聞かなかったように思う。それはもっと後になってから広まったのではなかろうか?


ここで蜀山人説との関係が気になる。


別の時代・地域・人物なのに非常に良く似た話があることは神話・伝説には珍しいことではない。俺は当初この件もそういう話なのではないかと考えた。


だが、そうではなくて単純に蜀山人を平賀源内に置き換えただけなのではないか?


つまり現代において誰かが捏造したのではないか?ということ。


ただ、それよりも故意にではなく蜀山人と源内は交流があったようなので、「蜀山人が考案したというコピーは実は源内が考案したのだ」という独自研究」があった可能性が高いようにも思われる。


というのも上の記事に、

 先述の『里のをだまき評』の中の「土用の丑の日に鰻を食べると滋養になる」との記述をきっかけに、蒲焼きが広く売れるようになったとする説が一つ。もう一つ、源内が商売繁盛のアイディアを求め源内のもとに来た鰻屋に対し「本日は土用の丑、鰻食うべし」と大書した板を店先に出すように指示すると、はたして客が大勢押しかけてくるようになった、というものもある。

とあるから。同じ源内説でも二種類あるわけだ。二種類あるといっても本来は『里のをだまき評』説しかなかったのではなかろうか?それが「独自研究」により蜀山人説と合体して「真相」が作られてしまったのではなかろうか?



これが今のところの俺の推理。


(追記2018/05/01 『里のをだまき評』は活字が無かったので、崩し字苦手な俺は当時調べなかったけれど、これにもそんな記述は無い模様)


ところで、上の記事には『明和誌』が出てくる。

 これらは共に俗説とはいえ、江戸中期の風俗を記した『明和誌』(白峯院著・1822年刊)に、土用の丑の日に鰻を食する習慣は、安永・天明(1772〜1789年)の頃よりはじまったとする記述が見られる。源内が亡くなったのは1779(安永8)年であり、土用の丑の日の風習が広まった時期は、彼が活躍した年代ともしっかりと重なる。本草学に通じ天才的なひらめきを持つ源内が、自身の愛する鰻について面白半分に名コピーをひねり出した。こうした噂話が庶民に好まれ、やがてそれが民間伝承として人々の生活に定着し、今に至るまで伝わっていったのかもしれない。源内は江戸の人々に人気があったようで、江戸後期の雑史『続談海』には「死後に至り今に人のをしがるもの」として源内の名が一番に挙げられている。

この記事は『明和誌』に源内がコピーを考案したということが書かれているといってるわけではない。


だがウィキペディアの記事に『明和誌』が出典と書かれている謎は、もしかしたらこの記事の誤読によるのかもしれない。


(ただし俺は出典が『明和誌』だという話を昨日ウィキペディアではじめて知った。ネット上にある『明和誌』説のソースが全てウィキペディアによるものなのかはわからない)


(追記)
重要な訂正


源内のエピソードは現代において誰かがでっちあげたのではないかと推理したのだが、この話自体は大正時代に既に紹介されていた。