土用の丑の日

「夏バテ防止のために土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説が文政5年(1822年)の『明和誌』にある。

平賀源内 - Wikipedia

この話はテレビなどで良く紹介されていて割と良く知られている。にもかかわらず、この話をして「うなぎの旬は冬なのに平賀源内に踊らされて」みたいなことを自慢げに語る人多し。


ところが、
土用の丑の日 - Wikipedia
を読むと、これは諸説ある内の一つにすぎないみたい。

春木屋善兵衛説 - 同じ文政年間(1818年–1831年)の『江戸買物独案内』によると、土用に大量の蒲焼の注文を受けた鰻屋春木屋善兵衛が、子の日、丑の日、寅の日の3日間で作って土甕に入れて保存しておいたところ、丑の日に作った物だけが悪くなっていなかったからという説。
蜀山人説 - やや時代が下がった天保10年(1839年1840年)の『天保佳話』(劉会山大辺甫篇)では、やはり鰻屋に相談をもちかけられた蜀山人こと大田南畝が、「丑の日に鰻を食べると薬になる」という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したという話が載せられている。
・丑=鰻二匹説 - 平仮名で墨汁を使って毛筆で書いた「うし」と言う文字が、まるで2匹の鰻のように見えたからと言う説。


これらの中でなぜ平賀源内説だけが有名なんだろうか?


思うに、特に史料的に信頼性が高いということではなくて、単にマスコミ等で紹介されたので有名になったということではなかろうか?


ところで、ここに驚くべき記事が
風塵独語

ネットで検索してみると、平賀源内説が出典『明和誌』(文政5(1822)年)として紹介されているが、『明和誌』にはそのような記述はない。「此頃福内鬼外(本名平賀源内)といふ浪人あり、至ての才物、人の知る処なり。落し咄戯作ものの小冊をこしらへ、本やへ遣(おこ)す、今流行戯作もののはじめなり」とあるだけでうなぎの話は出てこない。

ナ、ナンダッテー!


これはさすがに驚いた。ただし、まだこの記事しか見てないからもう少し確認してみる。


近代デジタルライブラリー」に「明和誌」あった。

一、よし原天明のやけ後、水道尻に火の見やぐら出来。中の町へ芸者の見番・うなぎ見世いで、揚屋町にて茶や入口に残り、伏見町茶屋はなく、商人見世計になる。

一、近き頃、寒中丑の日にべにをはき、土用に入、丑の日にうなぎを食す、寒暑とも家毎になす。安永天明の頃よりはじまる。

という文はあったが、上の記事にあるように
本当に無い!


何じゃこりゃああああああああああああああああ!





(一応別本があるという可能性もあるけれど、やっぱり無いんじゃないかなあ)




今後変更があるかもしれないのでウィキペディアの「土用の丑の日」の項ここに引用しておく。

通説(平賀源内説)

鰻を食べる習慣についての由来には諸説あり、讃岐国出身の平賀源内が発案したという説が最もよく知られている。これは文政5年(1822年–1823年)の、当時の話題を集めた『明和誌』(青山白峰著)に収められている。

それによると、商売がうまく行かない鰻屋が、夏に売れない鰻を何とか売るため源内の所に相談に行った。源内は、「丑の日に『う』の字が附く物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めた。すると、物知りとして有名な源内の言うことならということで、その鰻屋は大変繁盛した。その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したという。実際に鰻以外には、梅干や瓜などを食する習慣もあったようだが、今日においては殆ど見られない。

実際にも鰻にはビタミンA・B群が豊富に含まれているため、夏バテ、食欲減退防止の効果が期待できる。ただ、鰻の旬は冬眠に備えて身に養分を貯える晩秋から初冬にかけての時期で、秋から春に比べても夏のものは味がおちる。