共産主義は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」じゃないの?

「ソ連ではいくら働いても給料が上がらないのでみんなやる気を失って崩壊しました」などという資本主義者のデマには我慢ならない。 - Togetterまとめ
なんかすごく話題になってる。


ソ連が実際どうだったか詳しいことは知らない。
という批判もある。しかし根本的なことを言えば、共産主義とは「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という思想だから「能力給」などというものはあったとしても、それは共産主義に反することであり、
なんてこと以前に「名ばかり共産主義」ということになってしまうだろう。


ただし「より働けばよりよい待遇を得られた」の意味が、中央当局から「能力に応じて」割り当てられたノルマを達成するという意味ならば、そういうこともあろう。しかしこの場合、ノルマを達成するのは当然のことであって、ノルマを達成できなかった人は「能力がない」ではなくて「やる気がない」とみなされペナルティが課され、場合によっては「人民の敵」とみなされるという意味で、待遇に差がつくということになるだろう。


また稀にノルマ以上の成果を達成する人が出てくる場合もある。その場合彼は「英雄」として称えられ若干の特典が与えられる。しかしその場合「やればできる」ということになり彼および他の人々までがノルマが引き上げられられることになり、それが達成できなければひどい目に遭い人民の本音としては大迷惑である。よってノルマを達成することについては懸命に働くけれども、それ以上の仕事をすることは自分の首を絞めることであって、ノルマが出来るだけ低く抑えられるような方向で努力することになる。また「こんなもの作っても誰も欲しがらない。そんなものよりこっちを作るべきだ」と思っても、余計な仕事が増えるだけで下手したら責任を負わなければならない、あるいは上から睨まれるようなことなどに口出しすることに何のメリットもない。


これは何も共産主義国に限ったことではなくて米国の労働者だって基本的には同じこと(日本人が外国企業で要求された以上の仕事をして同僚から白い目で見られるというのは良く聞く話)。ただし資本主義国では資本家や経営者や管理職や個人経営者などは、自己の責任によって自己の財産を失ったりすることがあるので懸命に需要予測をしたり合理化に励むことになる。日本の場合は特殊で終身雇用の家族的経営の歴史があるせいかヒラ社員までもがそういう意識を持っている。それどころかバイトにまで経営者目線を要求するなんて話まであるのは異様ではある。


ちなみに役人が予算を使い切るのもこれと同じ。創意工夫して少ない予算で済んだとしても、予算が削られるだけだからそんな努力はしない。けれどそれは構造上仕方のないこと。役人が自発的に正すことはそれはそれで問題が発生するかもしれない。政治家や市民がチェックするか、「民間できることは民間に」が正しい対策だろう。


※ なお「日本の勤勉革命」と言われているものは中世の大家族経営で家長の元で働く個人個人にとっては懸命に働こうが働くまいが大して影響が無いのに比べ、小家族経営では自分の働きがストレートに自分に返ってくるので勤勉になったというようなことが言われてる。