自由主義の要点?(その12)

ハイエクについて検索してたら面白い記事があった。
「社会民主主義者」としてのハイエク - PRIVATOPIA
自由主義者からのハイエク批判について書いてある。


俺はド素人だし批判の詳細もわからないけれど、前半について言えば、その批判はおそらく自由主義的に正しいのだろう。しかし正しいと言っても共産主義が完璧でないのと同様に、自由主義もまた完璧なものだとは思えないから、正しさを追求していけば良いってものではないのではないかと思う。


さて、注目するのは後半のハンス=ハーマン・ホップという人(初めて知った)の批判。原文へのリンクがあるけれど俺の語学能力では理解不能なので、記事を引用されてもらうと、

ここでホップはハイエクのことを「社会民主主義者に等しい」とまで断じている。特に興味深いのが社会主義経済計算論争に触れている箇所だ。周知のようにハイエク社会主義の最大の問題を知識の問題としてとらえていた。つまり、社会に広く分散されている特定の状況下での知識は(経済活動において)非常に重要なものだが、これを中央計画当局がうまく処理することは不可能というわけだ。しかし、ホップはこのハイエクの議論の問題点を指摘する。それは企業の存在となぜ企業のオーナーは社会主義の中央計画当局と同じ問題に直面せずにいられるかを説明できないことだ。むしろホップはミーゼスにならい、社会主義の問題を私的所有権の不在に求めている。

ということだそうだ。これは俺も気になっていた点だ。なぜなら先にハーバート・サイモンの意思決定論について知ったことを書いたけれど、それは「組織」の問題であり、国家も企業も組織だからだ。


で、俺はハイエクの著書を精読しているわけではないので、ハイエクがこの問題について言及しているのか、あるいは言及していないのかわからないのだけれど、ハイエクのこの主張を突き詰めれば私的所有権が大切だという結論に到達するだろうとは思う。


なぜなら、松尾匡氏が

「リスクのあることの決定はそれにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ、その責任もその決定者にとらせるべきだ」

ハイエクの主張を要約するとき、その「責任」というのは私的財産にかかるものでなければならないからだ。松尾氏は「責任」とは何かについて説明していないけれど

そうすると、間違った決定をして他人よりもソンする人がどうしても出ます。ソンの可能性ばかりあるならば、だれもリスクのあることに手を出さなくなりますから、他方で、判断があたったときには、他人よりトクするご褒美も必要になります。

と主張しているとき、それは個人あるいは民間企業がリスクのある決定をした直接の結果として、自己の財産が増えた、あるいは減ったということを意味しているのだろう。そしてそれが「責任」であることは自明のことだと思っているのだろう。


しかし、たとえば情報通信技術の発達という「変化」に対応して、ネット通販という事業を立ち上げたとする。アマゾンや楽天はそれに成功して財産を増やすことができた。だが密接な関係にある共同体の中では何か行動を起こせば、その影響はあらゆるところに及ぶ。ネット通販成功の影には、それによって売り上げが落ちた本屋やCDショップや家電販売店がある。倒産して失業した人もいるだろう。


「責任」が、ある行動によって発生した結果について取るべきものであるとするなら、ネット通販企業は、彼らによって売り上げが落ち込んだ店の利益を補填しなければならないし、失業者の就職の面倒もみなければなるまい。しかし自由主義国家においては企業にそこまでの「責任」を取れという主張は(あるにしても)そんなに支持されないだろう。自由主義国家における「責任」とは民間人なら個人の私的財産(借金も含むが)、民間企業なら株主や従業員に対する責任という、限定されたものとなるだろう。


しかし、これが国営の事業ということになれば、単にその事業における収益だけではなく、それが影響を及ぼす広範囲についての「責任」を考慮せずにはいられないのではないだろうか?すなわち規模が大きくなればなるほど利害関係が複雑化し、人知では手に負えなくなってしまうのではないか?

かくして、ひとたび政府が正義のために計画化を始めると、政府はあらゆる人々の運命や地位への責任を引き受けざるをえなくなってしまう。
『隷従への道』P137

私的所有権が不在の社会にあっては、全てが公的財産であるゆえ、何かを決定しようとすれば、それが影響を与えるあらゆるものを考慮しなければならなくなるのではないだろうか?その考慮を担当するのが中央当局であれ、高度な共産主義社会における個人や組合であれ、それを完璧にこなすのはおよそ不可能であろう。