自由主義の要点?(その15)

松尾匡氏のコメントが俺の言いたいこととどうも噛み合っていない。
自由主義の要点?(その14) - 国家鮟鱇

「リスクのあることの決定はそれにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ、その責任もその決定者にとらせるべきだ」

なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1 | SYNODOS -シノドス-
ということが「自由主義的な経済学者の巨匠たちが言っていた要点」から導かれるということに違和感があるということをずっと言い続けているのです。


俺が問題視しているのは、松尾氏が何をイメージしているのかということじゃありません。どう読み取れるのかということです。


たとえていえば「私はラーメンが好きです」と言っただけでは「味噌ラーメンは含みません(私にとっては味噌ラーメンはラーメンじゃないですから)」ということは読み取れないのと同じことです。


松尾氏が「その責任もその決定者にとらせるべきだ」と言うとき、そこに「中央当局が処罰する」ということが想定されていないだろうということはわかります。しかし、その想定していないことが問題だと俺は思っているわけです。それを想定して、そう受け取られないような説明をすることが必要だと言いたいわけです。


なぜなら、それこそが自由主義の要点だからです。


ご承知のようにハイエクは「自由」という言葉の意味を社会主義者たちが巧みに変更してしまったということを強く主張しています。同じ「自由」という言葉を使いながら、自由主義者の使う「自由」と社会主義者の使う「自由」は相容れないものです。したがって「自由主義とは自由を求める思想だ」と言っただけでは不十分で、その「自由」の意味するものが何かまで説明しなければならないでしょう。


それは「自由」に限ったことではありません。

しかし、全体主義の宣伝活動のための道具として役立つようにその意味を逆転させられてしまったのは、決して「自由」という言葉だけではなかった。前にも見たとおり、「正義」や「法」や「権利」や「平等」といった言葉にも同様なことが発生してしまったのである。このような言葉のリストは、一般に使われている道徳上や政治学上のほとんどすべてを含むほど、広汎なものとなる可能性がある。
『隷従への道』P208-P209

コメント欄にある「主体的に」という言葉もそういったものの一つでしょう。


そんなわけで、

「リスクのあることの決定はそれにかかわる情報を最も握る民間人の判断に任せ、その責任もその決定者にとらせるべきだ」

という説明も、松尾氏がイメージするものとは全く違うものの説明にも使用可能なのであり、なおかつそれは比較的容易になされることになるだろうと俺は思うわけです。


既に書いたように、ここに欠けているのは「責任の範囲」と「何が責任を取らせるのか」ということであり、そこまで説明すれば意味の変換を防ぐのにかなりの効果があるだろうと思うのであります。