歴史の終わり

最近「進歩」について考えているのだが、その関連でフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」について。言及するには本当は本を読まなければならないけれどその余裕がない。しかし何が書いてあるかの解説はネット上にあるので、それを見た印象。


ウィキペディアによれば「歴史の終わり」とは

フクヤマヘーゲル=コジェーブ主義)にとって、歴史とは様々なイデオロギー弁証法的闘争の過程であり、民主主義が自己の正当性を証明していく過程である。よって、民主主義が他のイデオロギーに勝利し、その正当性を完全に証明したとき歴史は終わる(歴史の弁証法的発展が完結する)。歴史哲学では、歴史は意味を持ち、方向性を持ち、目的を持つと考えられている。目的を持っているから、その目的を達成したら、「歴史が終わる」という発想が生まれる。

歴史の終わり - Wikipedia
ということらしい。


これはもちろんマルクス主義史観とは異なるけれども根っ子は同じだろう。マルクスフクヤマヘーゲルの影響を受けているところが原因なのだろう(ヘーゲル良く知らないけど)。結局のところ、マルクス主義共産主義を最終形態としているけれど、フクヤマは「民主主義」(ソ連流の民主主義ではない)が最終形態だとしているのが違うにすぎない。


で、当然俺はこのような絶対的なものを設定する考え方に同意できない。他のことに使う時間を削ってまでそんなことが書いてある本を読もうという意欲がなかなかわかない。しかし本を読まなければ細かい批判はできないというジレンマ。


というわけで細かい批判はできないので、非常に大きい視点で批判してみる。



さて「歴史の終わり」というのは、あくまで「人類の歴史の終わり」という意味であろう。なぜなら仮に「民主主義」の勝利で終わるということが正しいとしても、それが犬や猫や、あるいは鳥や魚や、アリやハチにもあてはまるのかといえば必ずしもそうではないだろうから。


もし彼らに人類の言語を理解させる技術が発見されたとして、彼らに対し「民主主義が最高だから君たちもやってみなよ」と説得して、彼らがそれを実行したとき、彼らが幸福になるどころか、たちどころに種の絶滅を迎えるかもしれないのである。それはそれで「歴史の終わり」かもしれないが。


ところで先に「人類」と書いたけれど、「人類」とは何かということが問題になる。神のかたちに似せて作ったという聖書の記述を信じるのでなければ、我々は進化する存在である。我々のDNAを受け継ぐ者を「人類」と呼ぶことが可能だとしたら、近い未来はともかく、何億、何百億年先の「人類」がどのようなものになっているのかは予測不可能である。


H・G・ウエルズの小説「タイムマシン」(これも未読だけれど)には未来の人類が描かれている。

エロイのユートピアは偽りの楽園であった。時間旅行者は、現代(彼自身の時代)の階級制度が持続した結果、人類の種族が2種に分岐した事を知る。裕福な有閑階級は無能で知性に欠けたエロイへと進化した。抑圧された労働階級は地下に追いやられ、最初はエロイに支配されて彼らの生活を支えるために機械を操作して生産労働に従事していたが、しだいに地下の暗黒世界に適応し、夜の闇に乗じて地上に出ては、知的にも肉体的にも衰えたエロイを捕らえて食肉とする、アルビノの類人猿を思わせる獰猛な食人種族モーロック(Morlock)へと進化したのである。

タイム・マシン (小説) - Wikipedia


ウェルズは社会主義者でこれも当然階級制度批判のために書いたのだろうが、階級制度が持続しようがしまいが、人類がこのように進化する可能性は全くないとは言えないのである。そしてそうなった理由が何であれ、既に生まれた時から遺伝子に組み込まれているからには、生きていくために必要なものとなっているのであって、知性でどうなるというものではないのである。今の我々が他の生物を食べて生きているのと同じだ。そんな世界で「民主主義」が最高だといっても誰が信じるだろうか。


というわけで「歴史の終わり」が仮に正しいとしても、それはあくまで現在に生きている人類を基準としたものであり、未来のことはわからないのである。


このような非常に大きな枠組みで見れば「民主主義」が絶対的なものであるはずがない。じゃあ近未来ならば絶対ではないとしても「ほぼ絶対」なのかといえば、人類の長い歴史、そして絶滅しなければ続くであろう未来に比べれば、100年、1000年単位では極端な変化は起きないかもしれないけれども、それでも遺伝子レベルで微細な変化が無いとはいえないし、何より我々をとりまく環境に変化が起きる可能性は非常に高いのであって、そこでは「民主主義」が最高だなんてことは誰もたわごとだと思って信じていないという可能性は、それほど低いものではないと思うのである。



※ ところでフランシス・フクヤマは『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』という本を書いている。

人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か

人間の終わり―バイオテクノロジーはなぜ危険か

もしかしたらここに書いたことはフランシス・フクヤマの想定内のことなのかもしれない。ただし、もちろんバイオテクノロジーが無くたって人類が変化することはありうることだろう。