進歩史観の謎

進歩史観について調べてるんだけれど謎は深まるばかり。どこかに素人にもよく理解できるような解説書はないだろうか?


さて、進歩史観について検索していると、よく出てくるのが地球環境問題だ。


マルクス主義歴史学によれば「進歩」の原動力は生産力の発展にある。そしてその行き着く先が共産主義社会ということになる。ところが生産力の発展はマルクスの時代にどのように認識されていたか俺は知らないけれど、現在では環境破壊をもたらし、人類の存続を危うくしかねないものだと考えられるようになった。だとすればバラ色の未来だったものが、逆に灰色の未来になりかねない。


というわけで、進歩史観が揺らいだというような話をまま見るのだが、ここで俺は頭が混乱する。


というのも進歩史観は「人類は進歩する」という歴史観であって、「人類は進歩すべき」という話ではないからだ。すなわち望むか望まないかにかかわらず、それは必然的に起きることなのだ。たとえてみれば「あと約2ヶ月で2015年の元旦が訪れる」というようなものであって、元旦はめでたいものだと思っていたけれど、よく考えてみればそれだけ年を取るから死に一歩近付くってことじゃないかと気付いたからといって、元旦が来るのは避けようがないではないか。


バラ色の未来だと思っていたのが灰色だと気付いたから史観を変えようなんて「ご都合主義」以外のなにものでもないではないか。そんなものは到底「科学」とはいえないではないか。人類が進歩するというのが科学的に立証された事実だというのなら、バラ色でなく灰色だったとしても、事実に向き合わなければならないのではないか?


この手の論者は「人類は進歩する」という話をいつのまにか「人類は進歩すべき」という話に摩り替えてしまっているのではないか?「人類は進歩すべき」という話なら進歩を止めることはそりゃ可能かもしれない。しかし進歩史観は本来そういう話ではなかったはずだ。


都合が悪いから見直すのではなくて、進歩史観が間違っているから人類に希望が持てるという話をすべきではないのか?それが都合が悪いからという理由で史観を変えるなんてよこしまな動機のものならば、他の史観に乗り換えたところ進歩史観の亜流のようなものが出来るだけでろくなことにはならないのではなかろうか。


なんかすごくモヤモヤする。