進歩史観の謎(2)

どんどん深みにはまりそうでこわい。しかし基本は進歩史観とりわけマルクス主義歴史観唯物史観)なんて疑似科学だろと。そんなこと深く考えるまでもなくわかりきったことだと俺は思う。けれどそれにもかかわらずこんなものが信じられてきて、日本では戦後歴史学の中心となって、そして今も信じている人が歴史学者の中にさえ少なからずいるらしい。そこが本当にわけがわからないのだ。


たとえば平等な社会を理想として絶対視して、その目標に向かうことを「進歩」とし、人類は進歩しなければならないという信念を持っているというのなら理解きないことはない(保守思想の立場からすれば善意に基づくものであっても危険なものだと考えるわけだが、それでもそういう考えを持つ人がいるということは理解はできるということではあるが)。


だけど、そのような「進歩」を目指す思想において、進歩史観は必須のものかといえばそんなことはないだろう。人類は進歩してきたしこれからも進歩するなんて認識がなくたって、つまり人類の歴史は「目標」に近付いたり遠ざかったりしてきたと考えたって進歩を目指すことは可能ではないか。


にもかかわらず彼らは進歩史観にこだわってきたし、今でもこだわっている人がいる。そこが全くわからない。