すべては『先哲叢談』からでは?

何時京都に? - Living, Loving, Thinking

青年時代に大石内蔵助良雄が伊藤仁斎に学んだという出典は不明だけれど、そもそも山科隠棲中に伊藤仁斎に学んだという話も確かな証拠は無いように思われ。


全くの推測ながら、これらはすべて『先哲叢談』から派生したものではなかろうか?


先哲叢談』は近代デジタルライブラリーにもあるけれど
藤田篤訳『譯註 先哲叢談』(明44刊) 巻四(Taiju's Notebook)が便利。

大石良雄贄(し)を仁齋に取る、一日來りて其講書に侍す、而して時々睡りて聽かず、衆皆匿笑す〔カクシワラフ〕、退くの後詬罵〔ソシリノゝシル〕して曰く、懶惰彼が如きは學ばざるに若かずと、仁齋曰く、小子妄(みだり)に謗ること勿れ、予を以て彼を觀るに庸器〔平凡の人物〕にあらず、必ず能く大事に堪へんと

これがいつの話かは記されていない。


そこで、一方では大石が門人だったのは京都にいた隠棲時代だと推測したのではないか?


しかし、話の内容は大の大人に対するものとしては不自然だ。青年に対する評価がふさわしい。これはたとえば織田信長が父の葬儀でやんちゃをしたときに筑紫の僧侶が「あれこそ国は持つ人よ」と評したという話がある。水戸黄門も若い時に似たようなこと言われてたような記憶がある。それに内蔵助は赤穂藩家老から浪人になった身であって、未来を知るものでなければ「これからの人」ではなくて「終わった人」であろう。常識的に考えれば本人がこれから何かするというよりも息子をどこかに仕官させて立身出世を願うというのが本道ではないだろうか。また内蔵助は浪人とはいえ元は赤穂藩の筆頭家老であり血筋も良い。しかもなぜ浪人となったのかも世間の知るところである。そんな人を謗るというのもちょっと有り得なさそうな話ではないか。


そう考えると、これが隠棲時代の話だとした場合は事実だというのは非常に疑わしい。しかし、もしこれが青年時代の話だとすれば合点がいく。だとすれば内蔵助は青年時代に門人だったのではないか?とすればそれは何歳の時か?山鹿素行が赤穂にいたのは内蔵助が8歳から16歳の時である。であるからしてそれ以後のこととなろう。一方19歳の時には祖父(養父)が死んで家督を相続したので赤穂に帰らなければならない。従って門人だったのは17〜18歳の時ということになる(16〜17歳というのは満年齢か)。


このような推測によって青年時代に門人だったという説が生れたということではなかろうか?


というわけで、隠棲時代説も青年時代説も、どちらも『先哲叢談』からの推測ではなかろうか?そしてさらに本来は一方が正しければ一方は間違ってるという説だったのに、いつの間にかそれが忘れられて両方とも本当だという説ができたのではなかろうか?


先に書いたようにあくまで推測だが…


※ ただし「伊藤仁斎 大石」でGoogle検索すると

赤穂義士の歩いた道 - 137 ページ - Google ブック検索結果
books.google.co.jp/books?isbn=4835573188
柏原新 - 2004
大石良雄が京都堀川の伊藤仁斎に師事したのは、若いころと、山科に閑居していたころで、そのときには主税も伴って受講していたらしい。伊藤仁斎の講座では居眠りが多く他の門弟から大石は聖人の書講に対して慎まざる態度と嘲られたが、師仁斎独りは良雄 ...

とあり、隠棲時代に息子の主税(良金)も父と共に受講したらしいという話がヒットする。これが何によるものなのかが不明。


※ ところで内蔵助が祖父の養子になったのは延宝元(1673)年に実父が祖父の家督を相続せぬまま死んだからで、山鹿素行が許されたのと同じ年である。実父が死んだ直後に京都に行くというのは有り得なさそうな話だと思うがよくわからない。


※ なお個人的にはそもそも『先哲叢談』の話は事実ではないと思う。