大石内蔵助と荷田春満と伊藤仁斎(追記)

堀部弥兵衛金丸私記』という史料に

ー 京稲荷の社家羽倉斎と申す浪人、先年御法事の節、斎を大炊御門大納言様召し連れられ御下り、中島五郎作に此の斎儀江戸に残り居り度き旨申候間、其の方御頼み成さると大炊様御頼につき、五郎作本宅三十間堀の店にて店賃をも取らず借し置き、諸事浅からずねんごろに仕候由、夫れにつき大石氏事、五郎作居宅へも、折々参られ、出来合いの料理など四五度も振るまいにあい、尤も斎宅にても五郎作と折々参会の由 −

とある(『忠臣蔵の真相』飯尾精 新人物往来社

忠臣蔵の真相

忠臣蔵の真相


これは上に引用した『赤穂義士の歩いた道』(柏原新)、『小説 大石内蔵助: 男の本懐を遂げた赤穂藩家老』(羽生道英)に書かれてあることとほぼ同じ。だが、ここに大石内蔵助荷田春満が旧知の間柄だったとか、伊藤仁斎の門人だったとかは一切書いてない。すなわちこの『堀部弥兵衛金丸私記』を基礎として、そこに別のところからそれらの話を挿入したと考えられる。



(追記)

江戸では赤穂浪士のひとり大高源吾と交遊があり,春満は高家吉良氏邸に出入りする便宜があったため,邸中の図を大高に与えたという。

荷田春満 とは - コトバンク


大石内蔵助荷田春満に直接のつながりがあったわけではなくて中間に大高源吾が入っているらしい。大高源吾の母は小野寺秀和の姉。小野寺秀和と伊藤仁斎が知人だったことは伊藤梅宇の著書からほぼ確実。