すべては『先哲叢談』からでは?(追記)

伊藤梅宇『見聞談叢』三則: 永蔦雑志


伊藤梅宇は仁斎の次男で東涯の弟
伊藤梅宇 とは - コトバンク


著書の『見聞談叢』に小野寺十内・大野九郎兵衛と子の小堺十助(群右衛門)・大石主税の記事がある。
小野寺秀和 - Wikipedia
大野知房 - Wikipedia
大野群右衛門 - Wikipedia
大石良金 - Wikipedia


小野寺十内は「先人と念比」(仁斎と念ごろ)、大野九郎兵衛は「先人と近付のすじ」とあり、大石主税は梅宇と会っていたという。


ところが大石内蔵助については書いていない。

大石本人と古義堂にわずかでも関わりがあれば、梅宇がここに漏らすはずはない

と記事にあるが全くその通りだと思う。『先哲叢談』の話が事実でないことはほぼ確実であろう。ただし内蔵助青年期の話だとすれば梅宇が生れる前のことだから知らなかったという可能性も全く無いとはいえないが、さすがに父や周囲から聞かされているであろう。


※ 仁斎の息子と内蔵助の息子に接点があったというこの『見聞談叢』の記事が膨らんで親同士も接点があったという都市伝説となり『先哲叢談』(1816)の記事になった可能性はありそうだ。



見聞談叢(一部)隆慶一郎ワールド)
大野九郎兵衛の記事が抜けているが小野寺十内、大石主税の記事はここに抜粋してある。伊藤梅宇と大石主税は大石父子が山科隠棲中に七八度逢ったという。先に書いた「主税も伴って受講していたらしい」という話の元はおそらくこれだろう。だが主税が仁斎の塾で学んでいたとは書いてない。なお赤穂藩改易の1701年に主税は14歳、梅宇は19歳。


ところで大石主税の記事に

近日に江戸へ仕官の為参ると云ふ口上、その内に急にまちがひありて、延引、

とある。興味深い話だ。当初は討ち入りどころか御家再興すら本気で考えていなかったのではないか。「延引」の理由は旧赤穂藩士の圧力があったということではなかろうか。