荷田春満と大石良穀

ウィキペディア元禄赤穂事件の項を読むと

吉良義央在邸確実の日を探るため、大高忠雄(脇屋新兵衛)を茶人山田宗偏に弟子入りさせる。宗偏は本所に茶室を構えていたので吉良義央から吉良家の茶会にしばしば招かれていた。その宗偏から吉良家の茶会が元禄15年12月14日(1703年1月30日)にあることを聞き出した。しばしば吉良邸に招かれて、『源氏物語』や『伊勢物語』を進講したり、歌の指導をしていた国学者荷田春満が大石良穀の友人であったので、春満を通じて吉良邸茶会が12月14日にあり、その日は泊まり客があるとの情報を当日の夕刻、兄で弘前藩家臣の大石良麿とともに、米沢町の堀部金丸宅を訪れた大石良穀から入手。大石兄弟は父の大石良総と相談して知らせに来た。大石良雄はそのときはじめて春満の存在を知って討入予定がなぜ漏洩したのか不審に思った。しかし、確かな情報と判断し、この日元禄15年12月14日(1703年1月30日)を討ち入りの日と決定した。

元禄赤穂事件 - Wikipedia
とある。


大石良雄はそのときはじめて春満の存在を知って」とあるのは先の『堀部弥兵衛金丸私記』と合致しないように思うが…


それはそれとして国学者荷田春満が大石良穀の友人であったので」と気になることが書いてある。


ところで大石良穀って誰?俺は忠臣蔵マニアではないので四十七士についてすら良く知らない。ましてやそれ以外においておや。


検索すると大石無人の次男だそうだ。って大石無人も知らないんだけれど。

大石無人(おおいし むじん、寛永4年(1627年) - 正徳2年5月5日(1712年6月8日))は、江戸時代前期の武士。名は良総(よしふさ)。他の通称に五左衛門(ござえもん)。

赤穂藩浅野氏の家臣・大石信云の長男として生まれた。弟に大石信澄(赤穂浪士の大石信清の父)がいる。しかし、正保2年(1645年)に父が隠居した際に家督を継いだのは弟の信澄であった。無人はしばらく赤穂藩に仕えたものの、寛文6年(1666年)に藩を離れた。無人の長男の大石良麿や次男の大石良穀も赤穂浅野家には仕えず、それぞれ陸奥国弘前藩津軽家と讃岐国高松藩松平家に仕えている。

大石無人 - Wikipedia
「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。」ってあるけれど他に頼るものがない…


これによれば大石良穀は「讃岐国高松藩松平家に仕えている」とある。先に大石内蔵助の叔父の大石平内が高松藩にいると書いたけれど、大石一族と高松藩は縁がある。まあ近いからということもあるんだろうけど。


高松藩赤穂藩を偵察していたという記事。
赤穂藩偵察を記した古文書を発見 | 香川のニュース | 四国新聞社

偵察団の一員として「大石内蔵助殿弟大石平内と申仁 高松御家中ニて三百石取居被申候」と名前が挙げられている。

先の大石平内は内蔵助の叔父だけれど、こっちの平内は内蔵助の弟とある。記事でも疑問として書いている。ただし義父(祖父)も内蔵助だから、祖父の弟=養父の弟=叔父ということかもしれない。


ついでに大石信興。

大石 信興(おおいし のぶおき)は、江戸時代前期から中期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。赤穂浪士四十七士の1人である大石信清の兄にあたる。

(中略)

その後は母とともに讃岐国高松へ住み、やがて関白近衛家熙に仕えた。母も近衛家に出仕し、外山局と称した。信興は討ち入りに加わらなかった赤穂藩士で再仕官が叶った人物だが、従兄弟の大石良穀も近衛家に仕えていたので、その縁故を頼ったとも考えられる。

大石信興 - Wikipedia

彼も高松に住んでいた。さらに近衛家に仕えた。大石良穀も近衛家に仕えていたと。


討入り時の高松藩主は水戸光圀の長男の松平頼常。
松平頼常 - Wikipedia


色々と興味深いが肝心の大石良穀と荷田春満の関係はわからずじまい。