大石内蔵助と荷田春満

ウィキペディアの「荷田春満」の項に

 元禄赤穂事件で有名な大石良雄とは旧知の友人であったといわれてきたが、一面識もなかった。大石は吉良家へ行っていた春満から吉良邸茶会が元禄15年12月14日(1703年1月30日)にあることを聞き出してこの日を討ち入り決行の日と定めたとされてきたが、事件当日に堀部金丸宅で大石良麿・良穀兄弟より春満からの情報を聞いたとき初めてその名を知った。それも、来客が泊まるようなので討ち入りは延期したほうがよいという情報だった。

荷田春満 - Wikipedia

荷田春満大石良雄とは旧知の友人であったといわれてきたが、一面識もなかった」とあることは既に書いた。それで調べて見ると「旧知の友人であった」ように書かれているものが実際に複数存在したことも既に書いた。


ところで「一面識もなかった」とは、俺は「旧知の友人」ではないという意味で解釈していた。昔から知っていたわけではないが江戸で知り合ったということだろうと思っていた。


しかし「一面識もなかった」というのは、最後まで一度も会ったことがないという意味であった。ウィキペディアの記事をあらためて読んで見ると俺が勘違いしていたことは明白だ。


何でこんな勘違いをしたかというと、検索でみつかった『赤穂義士の歩いた道』『小説 大石内蔵助: 男の本懐を遂げた赤穂藩家老』などを見ていて、「旧知の友人」の真偽についてにのみ注目して、大石内蔵助荷田春満が会っていたということには疑問を持っていなかったからである。


そういうわけで、『堀部弥兵衛金丸私記』に「夫れにつき大石氏事、五郎作居宅へも、折々参られ」とある「大石氏」とは大石内蔵助のことではなく、別の大石氏のことであった。


で、この大石氏とは誰かといえば、これが大石無人の息子であると考えられる。ウィキペディアの「荷田春満」の項に「大石良麿・良穀兄弟」とあるのがまさにこれ。「元禄赤穂事件」の項では「米沢町の堀部金丸宅を訪れた大石良穀から入手。大石兄弟は父の大石良総と相談して知らせに来た」とある。


我ながら間抜けだったと今となっては思う。


でも自分のミスを棚上げにして言わせてもらえば、忠臣蔵関係の情報はデタラメなものが多いとつくづく思う。それが江戸時代の事実と異なる伝承に基づくものならそれはそれで価値があるけれど、おそらくそうではない。近代以降、あるいは戦後の学者・研究者によって作り出された「新説」がいつの間にか「真実」として流通していった可能性が高いと思う。