『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その5)

『太閤記』と『真書太閤記』と進化論(その4)の続き。

沙門之作法には疎く、世間之取沙汰には、十を悟れる智世に勝れ、取分勇道之物語をば、甚以すき給ひつヽ、稚心にも、出家は乞丐之徒を離れざる物を、と思召、万雅意に振廻給ひ、僧共にいとはればやの心なりしかば、如案、いや〳 〵此児気分は中々沙門とは成ずして、還て仏法之碍をなすべしと衆議一決し、父の方へぞ送ける。

仏法には疎く、暴れてばかりいて、僧に嫌われて、父方へ送り返されたというのは、『真書太閤記』や『弁慶物語』と極めて類似している。


ただし、秀吉はわざと僧に嫌われるようなことをしたという(「僧共にいとはればやの心なりしかば、如案」。というのはそういう意味ですよね)。ここが他と違う。もちろんそういう伝説があった可能性もあるけれど、これこそまさに「甫庵史観」というものではなかろうか。

日吉殿、父が折檻をせん事を恐れ、追出しつる坊主共を打殺し、寺々を可焼払と、ことごとしく怒り出られしを、彼僧共童部とは思ひながら恐れをなし、うつくしき帷、扇などを送り、機嫌を候ひにけり。

「案の如く(如案)」追い出された秀吉が、何で怒ってるのか不思議。これこそ「甫庵史観」で修正されたために生じた矛盾ではないかと思うが自信なし。他にどういう解釈が可能だろうか?


ところで、この太閤記』の話が『真書太閤記』にはないのだ。

上人も駆け付け此体を見て呆れ果て、最早十二歳なれば物のわきまえも有るべきに、斯かる事を致す條言語道断なり。何と叱るべき様もなき悪行なり。最早我等には差し置き難し早々に親元へ帰すべし。

『真書太閤記』では僧徒に告げ口されて師匠に叱られたけれど一向に改まる気配がないので、母の従弟の源右衛門を呼んで連れ帰させただけだ。


『絵本太閤記』は『太閤記』にやや似た話を載せる。

日吉丸稚心にも僧徒の業は乞食の所為なりと嫌い、手習学問は曽てなさず近き辺の小児を集め、竹を持せて戦の形勢をなし、自から石上に立て指揮すること大将軍の器既に備はれり。寺僧の輩甚だ恐れ、此児僧業を務むべき者に非ずとて密に寺を追んとす。日吉丸是を聞て密に怒り児子法師を打擲し、器物を破、経巻を失し、本尊如来を打砕き、さまざまの悪行をなし寺中を騒しければ、住持殆養あぐみ親里へこそ帰しける。

しかし親元へ帰すことが決まってから暴れた描写はない。また、『太閤記』に似ているけれど『太閤記』にはない「戦ごっこ」がある。それが『弁慶物語』にはある。


そして、ここが重要なのだが、『弁慶物語』には、

衆議尤もいわれあり、如何様此稚児を親父の方へ送り候べしとぞ申されける。やがて此事稚児にの給わんとしけれ共、稚児は人の気色を見ては、大の眼に角を立てて見出し、頬骨荒れ、血筋さし現われ、ときときの歯噛みをして睨まるる間、師匠なれども、寄りかねてぞましましける。

と、親元に帰すことが決まってから、弁慶の様子を見て師匠が恐れるという描写がある。


この話は『真書太閤記』にも『絵本太閤記』にもなく『太閤記』の話が一番類似しているのだ。


これをどう解釈すればいいのだろうか?


学者が言うように『真書太閤記』が甫庵の『太閤記』を参考にして膨らませたものだとすると、甫庵『太閤記』は『弁慶物語』に類似した話を、そうとは見えないほど修正してあったのを、再び『真書太閤記』が『弁慶物語』を下敷きにして修正したということになるのではなかろうか?


しかし、もっと単純に小瀬甫庵の時代に『弁慶物語』に類似した秀吉伝説が存在し、甫庵はそれを修正して『太閤記』に記し、一方それとは別にその秀吉伝説が伝承して『真書太閤記』に取り入れられたとする考え方もできる。


『真書太閤記』には甫庵の『太閤記』の影響もあるだろう。しかし、弁慶伝説との類似に関しては、後世に付け加えられたというよりも、以前から存在した伝説だと考える方が理にかなっているように俺にはみえる。