『真書太閤記』の類話(その3)

『真書太閤記』の類話(その2)の続き。


○寺修行編

『真書太閤記』(腕白なので寺に預けられる)

然るに成人するに随い頑童にて親の手にも余り、六七歳の頃は隣家の小共と遊ぶに年より少なけれども気象者にて決て他の小共の下に就ず。依って近隣の輩ら実に形も心も能ぞ猿に似たる者かな、かかる子なれども親なればこそ不便にも有るべしなどと謗りけるに、弥助夫婦も我が子ながら持て余し、宅に置きては行儀作法の為にも成らざれば、手習いかたがた何れの寺院にも遣わす方然るべしと一家の輩ら進めける故、弥助も是に随いて清洲の明神町に源右衛門とて女房の従弟の有しかば是を頼み、上中村光明寺と云うへ遣わしける。

『弁慶物語』(親に捨てられ五條の大納言に拾われ義父により比叡山に預けられる)

大納言大きに喜び給いて、やがて若一と云う名を付け、寵愛限りなし。かくて過ぎ行くほどに、七歳の春の頃、比叡山西塔箒の律師けい心の坊へ昇らせけるが、此稚児成人に随いて一をば十共悟り、筆を取りては、妙を得たり。文を学ぶに暗からず、四観の窓の他に眼をさらし、詩歌・管弦の道にも達者なり。酒宴乱舞の上手の名を得たり。

『真書太閤記』(寺で暴れる)

光明寺の和尚も承知して、斯様の男子は必ず名僧知識とも成る者なりと手習いをさせけるに、此事は少しもせず、ただ子供を集め竹木を持て戦う体をなし、何時も己は小高き所に上りて大将なりとて数多の小共に下知を成。後世小共遊に山の大将我なりと云事は是より始まりしとかや。

『弁慶物語』(比叡山で暴れる)

日暮れぬれば、庭上の白州に出でて、直垂の袖をそばに付け、袴のそばを高く取り、乗り越え、跳ね超え、力較べ、弓は常の遊びとて、太刀薙刀の鞘を外し、をふつ返しつ、ぬけつくぐつつ、武芸の嗜み頻りなり。隣房の稚児達と掛け合わせ、諍う事是非無し。


(続く)