歴史学と伝説の歪曲

これはたとえ話なんだけれど。俺がお年寄りから伝説を聞いたとする。伝説は何でもいいんだけれど、たとえば「浦島太郎」の伝説を聞いたとする。そして、その話をこれも何でもいいんだけれどたとえばブログにでも書いたとする。それを見た誰かが「そんなことが本当にあったわけがない、お前は嘘つきだ」と批判したとしたら、それはとんでもない言いがかりだということは、ほとんどの人が理解できると思う。


もちろん、現在ならば「これは誰々から聞いた話であって事実かどうかわからない」などの但し書きを書かなかった方にも責任があるということになるだろうけれど、昔からそういうルールが確立していたとは思えない。それに、その史料の性質を見れば、その話が実際に本人が見たものを記録したのか、そうでないものなのかは大体わかりそうなものだ。


ところが、これが歴史学の分野になると、史料に書いてあることが史実でないと思われることだったりすると、その史料を書いた人の人格までを否定するような言動をする人というのは結構いるように見受けられる。冗談みたいだけれど。


そういう人にとっては、書き手が伝説を忠実に記したのか、それとも伝説を歪曲して伝えたのかの区別などどうでもいいのだろう。


たとえば俺が「浦島太郎」の伝説を聞いて、そんなことがあったわけがないとして、この話は本当は宇宙人がやってきたという話で、亀は宇宙船であって、太郎が年を取らなかったのは宇宙船が光速で移動していたからだなんてことを本気で考えて「正しい浦島太郎」の話を記録したとする。もちろん、これも史実ではない(一部に信じている人もいるけれど)。


そして、老人の話を忠実に記録した「浦島太郎」と「正しい浦島太郎」とは、史実でないという点では一致しているかもしれないが、同列にすることはできない。しかし、歴史学の分野では両者を同列に考えているのではないかと思うことがしばしばある。


なぜなら、史実と違う(と考えられる)というだけで、著者の創作だみたいなことを簡単に言う人がいるからだ。そして誰々を賞賛するためだとか、都合の悪いことを隠蔽するためだとかの陰謀論を言い始める。


史実と違うといっても、「伝説を忠実に記録した」「自己の信念よって修正した」「利益のために改竄した」など、その中身は千差万別のはずだ。そんなのちょっと考えれば小学生でもわかりそうなものだけれど、わからない人が偉い人の中にもいるらしい。冗談みたいだけれど。


現在の歴史家が書いたものでも、将来それが史実ではないとされるものはあるだろう(というか今でもそれはおかしいだろと思うものはいっぱいある)。それなのに、いとも安易に昔の史料を記した大先輩を批判するというのは天に唾を吐いているようなものだ。


それだけでなく、そんな意識で歴史の正しい理解などできるのだろうかとも思う。


日本書紀の編纂者がヤマタノオロチなど存在したわけがないと考えて(当時だって知識人が本気で信じてたとは思えない)、これは河川のことだと決め付けて日本書紀に「河川が氾濫した」などと書かなかったのは幸いである。