中国大返し(その2)

「中国大返し」の続き。


そもそも歴史家が勘違いしているのは豊臣秀吉織田信長の死を秘して毛利方と和議を結んだこと」と「秀吉が毛利方へ信長の死を知らせたこと」が矛盾していると考えている(らしい)ということだ。

なお頼山陽の『日本外史』などの末書には、秀吉は毛利氏に対し堂々と信長の訃を報じて講和したとあるけれども、それは全く誤りであって、秀吉は信長の訃を秘して毛利氏と講和したのであった。

本能寺の変』(高柳光壽 学習研究社

高柳博士がなぜ『日本外史』などという江戸時代後期の史料を取り上げたのか意図がわからない。他にも「信長の訃を報じ」たとする史料は多数存在するのだ。


なお、ここで「講和」とあるが、それが何を指すのかが問題だ。現在の通説では6月4日に秀吉は信長の死を秘して毛利方と和議を結んだとされる。それはいい。


だが、その後に秀吉が毛利方へ信長の死を知らせ再度交渉して約束を交わしたら、それも「講和」と呼ぶことが出来るだろう。諸史料によるとその日は6月5日だ


すなわち、秀吉は6月4日に信長の死を秘して毛利方と和議を結び、6月5日に信長の死を知らせ協力を要請し「講和」したのだ


そう考えることは十分可能だ。


それを歴史家は6月4日を「講和」と決め付けて、「秘したこと」と「知らせたこと」が矛盾していると考えているのだろう。


(つづく)