『甫庵太閤記』6月5日の記事に書かれている秀吉と毛利側との交渉は実際にあったのか?
毛利側の史料である『江系譜』に、
和睦相済み、同日(四日)秀吉より蜂須賀家政を以て、信長父子、明智光秀がために切腹を告ぐる事、毛利家より又悔やみの使者として、内藤越後守良正を遣はす、是により和睦堅く諾し、信長弔い軍として秀吉上洛、餞として銃五百挺・弓百張・籏三十本、内藤良正を以て送る、秀吉歓悦す、
という記述がある。(『真説 本能寺』桐野作人 学研M文庫)
これは『太閤記』の、
信長へ忠孝を可令報謝前表此上有まじきと、感悦再三に及べり。さらば明日可打立之条、鉄炮五百挺、弓百張、旗三十本、御合力有て給り候へ。予も又向後疎略有まじき旨誓紙あらんとて、内藤越前守并安国寺を呼寄、血判に及び、口上を委宣られしかば、何も承、其旨輝元両河にも、申聞せ候はんと御暇申けり、
とほぼ同じだ。なお『江系譜』の(四日)というのは、桐野氏の注であり、5日のこととしても良いように思えなくもないが、俺は未確認。
桐野氏は、この件について、
なお、毛利方が秀吉に弔い合戦の餞として鉄炮その他の武器・武具を贈ったというのも出来すぎた話にみえるが、『池田氏家譜集成』にも同じ武器が同数贈られたとある。
と書いている。また前に書いたように、『別本黒田家譜』に黒田孝高が毛利氏の旗を借りたという話が載っている。『江系譜』は『太閤記』と違い、比較的信用できる史料として、高柳・谷口両氏も引用しているが、この件には触れていない。
同種の話が複数あることから考えて、少なくともこの話は甫庵の捏造ではないだろう。個人的には事実あったのだろう思う。
- 作者: 桐野作人
- 出版社/メーカー: 学習研究社
- 発売日: 2001/03
- メディア: 文庫
- クリック: 2回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
(つづく)